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「働いて生きること」は、人の数だけ、物語があります。取材でお会いした方、ふだんからお世話になっている方、はたまた、仲のいい友人まで。これまでに出会った、他の誰とも似ていない仕事をしている「自分自身が肩書き」な人たちに、どのようにしてそうなったのか、話を聞きにいきました。

写真:藤田二朗(photopicnic)

根っからのエンターテインメント仕掛け人

第8話 蕎麦屋 石田貴齢さん


大学時代、この人のまわりにはいつも人が集まっていて、そこではいつも楽しそうなことが行われていた。
おいしい蕎麦を提供する店の主人になったいまでも、やっぱりまわりには人が集まっている。
石田貴齢さんをひらく、しごとの話。

名前

仕事

蕎麦屋

この仕事を始めたきっかけ

“洒落られる”から


石田貴齢(いしだ・たかとし)
1972年、静岡県出身。東京造形大学在学中に、ヒップホップグループ・四街道ネイチャーを結成。大学を中退後、合格が決まっていた料理専門学校の入学を蹴り、友人たちと服の買いつけの会社を立ち上げ、ニューヨークへ。アルバイトで和食店の厨房に入った縁で、帰国後、ついに料理の道に。2008年、地元に戻って「naru」開店。たんなる蕎麦屋に留まらず、ライヴや展覧会なども開催する浜松カルチャーを牽引する店として、学生から家族連れ、お年寄りまで幅広い層に愛されている。
http://www.narusoba.com/



生徒会長はピカピカの1年生

──「naru」は、蕎麦屋でありながらライヴなどのイベントも開催していますが、開店時からそういう構想があった?

全然! 最初はメニュー構成もざる蕎麦とかけ蕎麦だけみたいな、究極にシンプルな方向で考えていたくらいだから。でもあるとき知人に声をかけられて、小規模なアコースティックのライヴをやったのね。俺ももともと音楽をやっていたし、やっぱり音楽っていいなって。それでまたお誘いがあって、マルシェのイベントをやったんです。そしたら2日間で700人も来たの。その広告効果たるや! 出店者が新規のお客さんをどんどん連れてきてくれる図式でしょ。本当にありがたかったです。

──縁つなぎの図式もあったよ。そこで出会って結婚した、我らの友人もいました。

いましたねえ(笑)!

──じゃあ、この店が文化発信地のようになっているのは、べつに意図していたわけではなくて、結果的にそうなってしまったと。でも、学生時代の活動と、なんだかつながってますよね?

あ、そうだね。高校では3年間、生徒会長でしたから。

──え!? 1年生のときから生徒会長をやっていたということ?

そう。高校に入学してみたら、ヤンキーっぽい先輩が多かったのよ。まだまだそういうのがかっこいいっていう時代でもあったんだけどね。で、ああ、俺の高校人生は終わった……って感じだったんだけど、そのとき考えたのが、この学校にはヤンキーを生む素質があるんじゃないかと。たとえば校則とか、教師からの押しつけとか。だから学校内を楽しくしたら、みんな変わるんじゃないだろうかって。
で、校則をチェックしたら、指定のローファーしか履いちゃいけないんだっていう。なんだそれ、スニーカーで来たってべつにいいじゃん、とかね。だから、校則を変えないといけないと思った。それに、生徒会主催の新入生歓迎会が、まあショボくて。こんなもののために春先の寒い体育館に人を集めていったい何やってんだ、こんなことしてるからおかしなことになるんだ!って、先輩の生徒会役員にめちゃくちゃ腹が立っちゃって(笑)。
それで歓迎会のあと、まさにピカピカの1年生のまま、職員室に行って。生徒会の顧問の先生を探して「今日の歓迎会、僕は納得できません! 僕ならもっと楽しくできるので、生徒会長にならせてください」って(笑)。

──うーむ、なかなか変わった新入生ですねえ。

そのとき僕は、スチャダラパーの音楽や、小泉今日子のラジオ番組を聴いてて。雑誌だと『POPEYE』『Olive』『CUTiE』『Fine』とか。そういうのを知っている生徒は校内にはたぶんほとんどいなかったけど、興味をもつ人たちがちょっとずつ集まってきて、これはイケるぞっていう感覚は早々にありました。雑誌に載っている僕をドキドキさせるようなものは、たぶん学校のなかでも通用する!ってね。




──サブカルやファッションの雑誌はもともと読んでいたの?

中2のとき、教育実習で美人の先生が来て。きれいだから僕、近寄っていくじゃん(笑)? その先生に、『anan』を読みなさいって言われたの。女性誌を読めば女の子の気持ちや女の子がしてほしいことがわかるから、モテるようになるよって。「ホント!?」って、それで立ち読みしまくったんですよ、谷島屋で(笑)。そしたら、こういうときに花束渡せば完璧だとか、女の子の家に電話かけるときはこういうマナーでとか、雑誌ってそういう誰も教えてくれないようなティップスがいっぱい載ってるでしょ。きっかけはそこからで、とにかく雑誌が好きになって、読み漁って。たとえば『mc Sister』なんかは定期購読することになるんだけども(笑)。


──校則を変えたっていうのは?

風紀委員に話したの。「うちの学校の女子は未だにスカートの丈を長くしてるけど、渋谷に行ってごらんなさい。階段を上るときにはカバンでお尻を隠すくらい短くしてるんですよ? いまに短い時代がくるから、長いのを取り締まる必要はなくなります。靴下だって、足首のところで折り曲げちゃいけないってなってるけど、それもいまやダサいことで、これからは長い靴下が流行る。だから、そういうどうでもいいことを無駄に取り締まるのはやめましょう」って。その流れで、部活もそのままできる便利なスニーカーも認めましょうって、ローファーじゃなきゃダメっていう校則を撤廃したんです。それは、僕がエア・ジョーダンで登校したかったからなんだけどね(笑)。


食と音楽の共通項

──で、我らが母校・東京造形大学に進学したんですね。

そう。俺、小学生のときから美術の成績がずっといいじゃない?

──知らない(笑)。

それはともかく、その生徒会の顧問が美術の先生でもあって、「美術大学に行く気はないか?」って。当時、一芸入試が流行ってたでしょう? 推薦人制度っていうのが造形大にあって、指定を受けてる各地の造形の卒業生が、おもしろそうな高校生をピックアップして母校に送り込むという。その先生は造形卒業生の推薦人だったわけ。僕は東京に出て洋服屋の店員になりたかったから、大学進学なんていっさい考えてなかったんだけど。


──なのに、その提案をすんなり受けたのは?

東京に行けるから。

──なるほど! 何せ“東京”造形大学だもんね。

うん。実際には「ここ、東京?」ってところにある山のなかの学校だったけどね(笑)。僕はだから、生徒会長を3年間務めたっていう実績による推薦だったの。

──美術、関係ないんだ(笑)。

でもね、後の世代も学園祭が楽しくできるように、生徒会役員に向けて冊子をつくったのね。そこには、雑誌のスタイルを真似ていろんなティップスを書いたんだ。たとえば、床材って規格が決まってるから、定規がなくても、この床のマス目3つぶんで約1メートルのものが測れます、とか。展示物を掲示するときは目線の高さに合わせるといい、とか。あとは学園祭でありがちなスペルミスの、WELCOMEの“L”はふたつじゃなくてひとつだよっていう注意喚起とか(笑)。

──すごいおもしろい、読んでみたい! どういう発想で制作したんだろう。

僕にとっては雑誌からのサンプリングだったんだと思う。僕はヒップホップが大好きだったんだけど、あれってサンプリング文化じゃない? 当時ネットがないから検索して調べられるわけでもないし、人に伝わりやすい構成とかレイアウトとか、参考にできるのは雑誌だったんだよね。

──貴齢くんの当時のその才能に、秘められた大きな可能性を感じます(笑)。



だから大学の面接では「本校には個性豊かなおもしろい学生がいっぱいいるから、学園祭をはじめとするイベントでそういう人たちのまとめ役として活躍してもらいたい」って言われたんです。だから造形ではわりと一所懸命、イベントに取り組んでたよ。

──それが入学の条件だから、やらなきゃ退学になっちゃう(笑)。で、学園祭では本格的な料理を出す模擬店をやったりして、実際、大きなインパクトを残していましたね。

あれのイメージはテレビ番組の『料理の鉄人』のキッチンスタジアム。焼きそばとかチョコバナナとか、何を売ってる店かっていうのは二の次で、人が何かをつくっている様子を目の前で生で見せればお客は満足するだろうって考えて。DJブースでも、客の反応を見て選曲するじゃない? そういうライヴ感みたいなのって大事だなと思って「食と音楽はエンターテインメントだ」って当時から僕、言ってたよ。


──へえ! そもそも食に対する興味はいつからあったんですか?

小学校のときの文集に、料理研究家になるって書いてたな。『キユーピー3分クッキング』や『きょうの料理』のテレビ番組が好きで、わりと全力で見てたんだよね。

──自分でも料理していた?

もちろん。いまよりつくってたかも。共働きの家だったから、わりとなんでもやらされてたしね。ホワイトデーなんかも、お返しはちゃんと手づくりしてましたよ。

──ってことは、バレンタインにチョコをもらっていたんだー。

だって、モテたくて『anan』買ってたくらいだから(笑)。

──じゃあ、料理は子どものときから素養があったんだね。

うん。あと高校時代は、バスで30分かけて浜松の街なかに出てきて、セレクトショップを覗いてはひとりでメシ食って帰るみたいなことをよくしてて。当時はひとりでも気軽に入れて、ちゃんとつくってる店がいまよりたくさんあって。そういう店で、つくってるのを見るのが好きだった。大学時代に通ってた店もそうだったなあ。調理が見られるカウンター席を陣取ってね。




雑踏のなかに明かりを灯す

──ところで貴齢くん、大学を卒業していないんですよね。

ええ。5年も行って中退ですよ(笑)。ラップグループを組んだり、スケボーやったり、ヒップホップカルチャーにハマってたんだけど、一緒に遊んでた仲間と4人で服の買いつけの会社を始めたの。
当時のラッパーたちはアメリカで服を買ってきて、会員制のマンションアパレルっていうのを展開したりしてた。みんながおしゃれだと思ってるラッパーと同じ格好がしたくても、XLとかXXLのサイズの服なんて東京のどこを探してもほとんど売ってない。それで、アポを取ってマンションの一室に行くと、そういうTシャツが売ってるわけ。現地で数ドルのTシャツが、東京のマンションに畳んで置かれると数千円になる。でも他では手に入らないから、需要はある!
これはビジネスチャンスだっていうんで、会社を立ち上げて、ニューヨークに買いつけに行くことにしたんだけど。じつは、大学のあとは料理の道に進もうと思って、専門学校を受験してたんだ。でも合否が決まる前日にその話を詰めちゃってて、やろう!って盛り上がってしまって。翌日、合格したことがわかったんだけどね。

──そこで1回、料理を先送りにしていたんですね。

でも、渡米したとはいえ、ビジネスを始めたばかりでまだお金もないから、マンハッタンの「Naniwa」っていう和食屋でバイトをしたんです。そのバイト先で出会った先輩には本当にお世話になって、その方が帰国して恵比寿の「Aoyuzu」っていう店に入ったとき、僕を呼んでくれてね。僕はそのときちょうど、買いつけの仕事をやめて料理をやろうとしていて。200席くらいある店で、部門ごとに仕事が確立していて、僕たちの担当は揚げ物と焼き物のセクションだった。そこで揚げ物と焼き物を身につけたので、独立するときに、じゃあ蕎麦屋ができるなっていう発想だったんだよね。



──自分の店をやりたいなって思ったのはいつ?

自分で決断したというよりは、時の流れのままっていう感じなんだけど。そのころには結婚していて、長女が幼稚園に入るタイミングで田舎に戻ろうって夫婦で話をしてて。

──なぜ?

疲れちゃってたから。仕事自体は楽しかったんだけど、大変で、精神的にまいってて。将来どうするんだとか、子どもがいるのにこんな自分でいいのかとか、いろいろ。十円ハゲもできちゃった。
高校生のときにターンテーブルを買って、DJやって、ラップやって、ステージにも立って、あげくニューヨークまで行って。わりとブンブンにやってたのに結局、俺は疲れて帰るんだなあって。




でもね、「Aoyuzu」では、自分のつくったものを目の前で食べてもらって、お客さんの顔が見られて。オープンキッチンだから全部見えるし、躍動感があるし、ラウンジミュージックが流行ってたころだからDJブースもあって。ああ、食と音楽はやっぱりエンターテインメントなんだな、楽しいなあっていう気持ちはあった。
それで、地元に戻るんだったらもしかしたらお店をやりたいと思うかもしれないし、そうであれば何か持って帰らないとということで、蕎麦屋っていうのを自分に課したというか、それなら自分にできるかもしれないって。 蕎麦なら“洒落られる”と思ったのは大きい。東京の荻窪に「本むら庵」ってお蕎麦屋さんがあるでしょ。

──ニューヨークにも支店があったよね。

そう! マンハッタンの店は一度しか行ったことないんだけど全然、蕎麦屋の出で立ちではないわけよ。ワインも飲めるし、だし巻きをソファで食べたりして、蕎麦屋としては完全におかしいじゃない? 記憶違いの部分もあるかもしれないけど……あの時代、とてもハマッていた。その衝撃がずっと頭に引っかかってた。うどんだったら、ああはなっていなかっただろうなって、時間とともに僕のなかで根づいていったの。だから蕎麦をやろうと思ったとき、自分がいちばん過ごしやすい方向性で、自由でいいんだと思ったんです。
この店の内装も、自宅をつくるならっていうイメージでやったんだよ。ペンダントライトとか、コンクリートと木のバランスとか、蕎麦屋としてはどうなんだろう?ってすごく考えたけど、でもあの店ではあそこまで振りきってたんだから、たぶんできるなって。

──それで、蕎麦打ちのプロ養成コースに通ったんだ。

そう。とはいえ、それで浜松に戻ってすぐにお店を始められるわけではないじゃない? 高い学費を出してもらった大学を中退して、ニューヨークに行くとか好き勝手言っといて、今度は蕎麦屋か!って家族は猛反対だし。
で、働きながら2年以上、物件探し。最初は郊外で探してたんだけど、いくら見てもピンとこないわけ。それって結局、田舎の家からいつも街なかに遊びにいってて、ついには東京に憧れて出ていった人間が、いまさら田舎でやろうとしても無理だってことで。
俺は雑踏のなかに明かりを灯していたいんだってことに気がついて、街なかで物件を探し始めて、それで見つかったのがここ。気づいたら、高校生のときに、ターンテーブル買うにはどうしたらいいんですかって訊きにいったクラブの目と鼻の先だったという。ぐるっと1周まわって、同じところに戻ってきちゃった(笑)。




ほとんどはルーチン

──貴齢くんにとって、どういう店が“いい店”だと思いますか?

まずは情熱がないと、いい店だとは言えないと思う。それから、やっぱり飲食店っていうのは信用が大事なんじゃないかな。お客さんが口にするものを提供するわけだから。うん、情熱と信用だね。そこは変に探究心とかって言いたくない。



──それはお客さんには関係ないかもね。

そう、わざわざ言うことでもない。情熱があって、信用が欲しくて、自分がやっていることにつねに意識的でいれば、それが探求していることになる。それは、このくらい学んだら必ずこうなるっていうわかりやすいものではなくて、日々の“差分”を感じるつもりがあるかどうかの問題なんじゃないかな。材料を石臼に入れて、生地が上がってきて、打って、切って。いつも同じようにやっているのに、きのうと今日ではなんで仕上がりが違うんだろう?って、つねに疑問をもって、発見して。




──作業としては、毎日同じことの繰り返し。毎日同じだから飽きるともいえるし、同じだからこそ違いを見出すおもしろさがあるともいえる。

普通にルーチンができたらいいし、そうしていることがほとんどなんじゃないか。おそらく飲食店の仕事の9割は、しなくちゃいけない、続けなくちゃいけないこと。自由にやれるのは、せいぜい残りの1割くらいじゃないかなあ。

スタッフに応募してきた子の面接でもよく言うんだけど、外面の憧れだけでいざ働いてみると、実際は繰り返さなくちゃいけない地味だったり大変だったりする作業がほとんどで、がっかりするかもしれない。毎日、毎日、つゆをとって、蕎麦を打って。僕は僕、女将は女将で、それぞれが同じことを毎日やっている。でも、それをけっしてバカにしないでほしい。そうすることで、プロになる手前の状態がやっとでき上がるんだから。そこがつまんないって思うなら、たぶん飲食店ではやっていけないし、一緒には働けない。だけど、自由にできる何かが1割くらいは必ずあるから、それを忘れないでほしい。僕らはそこを一緒に楽しみたいと思ってるから。




──今年の7月で開店からちょうど10周年。10年間続けるっていうのはすごいことだと思います。

僕のやることってだいたい3年が限界なんですよ。それが10年も続いてるからね。蕎麦屋をやってよかった、本当に。東京への未練ももうなくなったし。週1とか週2で食べにきてくれるお客さんもいるわけ。その人の生活のなかにこの店が入ってるのかと思うと、街の要素のひとつになってるんだな、なんて感じちゃうし。


──すごいことだよね。その人の1週間の予定に、それこそルーチンに組み込まれてるっていうのは。客商売やってる人がよく、お客さんの笑顔がモチベーションです!って言うけど。

うん、やっぱりお客さんの顔を見てナンボじゃない? べつに笑顔じゃなくてもいいけど、まあムッとしてたら凹むけど(笑)、お客さんの顔が見られるのはたしかにモチベーションになる。10年もやってると、最初のころは赤ちゃんだったのに、自分でお箸持って1人前を食べられるようになって、みたいなこともあるしね。進学した、就職したって報告に来てくれたり。


──そういうのはほんとに、継続していなければ経験できないことですね。





誰かに怒られたい


──お店を飛び出して、海外にお蕎麦をつくりにいったりしてるけど、そのきっかけは?

震災の年に『OPENharvest』っていうイベントに参加したことが大きかった。

──カリフォルニアの有名レストラン「シェ・パニース」まわりの人たちが立ち上げた、生産者から料理人から客から、食に関する人が一堂に会して食を共有する『OPEN』の日本版ですよね。私もすごく行きたかった。

そうそう! 料理人たちが1ヶ月前から日本に滞在して、生産者をまわって食材を確保して。イベントではそうやって手に入れた食材が僕らの目の前で調理されて。
それまで僕は、自分の手元にきた食材にしか集中していなかった。でも僕のところにくるまでにもたくさんの人が関わり、たくさんの労力がかかっているとわかって、そのストーリーに寄り添う気持ちが生まれたらちょっと楽になったというか。そういうふうにつながっていることを意識して仕事をしようと考えるようになりました。それで実際、取引先も変わった。きちんとやりとりできる人としかつき合わないようにしたし、好きな人からものを買いたいし。そういうのが精神的にすごく効いたんだ。




そのイベントに参加してたシェフたちの店で体験したい!って気持ちが湧き上がって、インスタなんかで連絡をとって。それで、せっかく行くなら蕎麦打ちやらせてもらえます?って話になって。何人かのお世話になっている方に協力していただいて、本当にやらせてもらえることになったんです。
年に1回は海外でっていうのを、そのときから決めてるんだ。サンフランシスコにしか行けてないけど、水質が違うイタリアやブラジルでもやってみたい。


──自分の鍛錬のため? それとも、お蕎麦を広めたいという使命感?

どっちもある。ニューヨークには手打ちの蕎麦屋が何軒もあるけど、西海岸は、サンフランシスコにも、バークレーにも、オークランドにも、1軒もないんだよ。僕がつくりにいくと、現地在住の日本人がクルマで2時間かけて食べにきてくれたりするの。久しぶりに手打ちの日本蕎麦を食べられたって喜んでもらえたりすると、またやらないとって思っちゃう。
……というのもあるし、誰かに怒られたいっていう気持ちもある。スタッフも抱えている自分の店では、下っ端の立場で尽くして失敗して怒られるとか、正直、もうないじゃない? だから、街の一部としての蕎麦屋であり続けたいという想いも当然ありつつ、同時に、サンフランシスコに出店したいとか、ここから独立して何かまた別のことをしたいとか、そんな気持ちも、じつはあるんです。

石田貴齢さんの “仕事の相棒”
女将(奥さまの朱那あかなさん)
「仕事に不可欠なものはいくつもあるんだけど……まずはやっぱり朱那ちゃん。この人がいないと、店も家庭も成り立ちません。“なんとかなる”から取って『naru』という店名を考えたのも朱那ちゃんなんですよ。結婚したときは服の買いつけの仕事してたから、いずれ東京でマイホームをつくるつもりですと、お義父さんには約束した記憶がございますが(笑)、騙し騙しついてきてもらってます、ありがとうございます!」



インタビュアー

野村美丘(のむら・みっく)

1974年、東京都出身。東京造形大学卒業。『STUDIO VOICE』『流行通信』の広告営業、デザイン関連会社で書籍の編集を経て、現在はフリーランスのインタビュー、執筆、編集業。文化、意匠、食、旅、犬猫など自分の生活の延長上をフィールドに公私混同で活動中。座右の銘は「ひと文字ひと文字にキレあれ」。この連載の撮影を担当している夫とphotopicnicを運営している。
www.photopicnic.pics


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