タイトルデザイン:峯崎ノリテル ((STUDIO))

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「働いて生きること」は、人の数だけ、物語があります。取材でお会いした方、ふだんからお世話になっている方、はたまた、仲のいい友人まで。これまでに出会った、他の誰とも似ていない仕事をしている「自分自身が肩書き」な人たちに、どのようにしてそうなったのか、話を聞きにいきました。

写真:藤田二朗(photopicnic)

たおやかに、静かに、ひとしずくの革命を起こす

第5話 プランニングディレクター 山倉あゆみさん


お菓子をつくる、料理をする。はたまた、自治体の職員となって奔走する。
誰かの想いをかたちにするために、彼女は変幻自在な“参謀”となる。
そうして膨大なプロジェクトを手がけているのに、本人はいたって淡々として、
なんだかとっても軽やかなのだ。
山倉あゆみさんをひらく、しごとの話。

名前

仕事

プランニングディレクター

この仕事を始めたきっかけ

クッキングパパ


山倉あゆみ(やまくら・あゆみ)
1978年、新潟県出身。プランニングディレクター、調理師、パティシエ、代表取締役、一児の母。2010年、Catering & Food Design Lab DAIDOCO結成。2017年、シンクボード株式会社設立。2017年からクリエイターコミュニティ「Cift」のメンバーになり、地元・新潟と東京の2拠点で活動中。
http://daidoco.net
http://syncboard.co.jp



先生は『クッキングパパ』

──もはやその範疇を超えているとはいえ、ご自身の活動のベースはもともと料理ですよね。食べるものに対する興味はいつ芽生えたんですか?

私が5歳くらいのときに、親から名前の入ったペティナイフを渡されて。家族でキャンプに行くときには献立から考えさせられていたんです。

──え、5歳で!?

はい(笑)。家族みんなで毎年2回、キャンプに行ってたんですけど、そのときは好きな料理をつくっていいっていう特典があって。『クッキングパパ』の漫画をドンと渡されて(笑)、それを読んでつくりたいメニューを決めなさい、と。テビチとかローストビーフとか、『クッキングパパ』の名作料理、あるじゃないですか。ああいうのをキャンプのときだけつくっていいんです。すごいよ、肉の塊とか買ってもらえるの。でも、必要なものリストを作成しないと食材は買ってもらえないし、リストの内容がまちがってたら、つくりたいものができない。



──たとえまちがっていても訂正されずに、そのリストのとおりに用意されるわけですね?

そう。その場合は現場で「わあ、どうしよう!?」ってなるんだけど、そこで工夫するのは大好きだったの。あ、ちなみに私、三姉妹なんですけどね。

──あゆみさんは、まんなかでしょう。

当たりです(笑)!

──3人で協力して1品つくるのではなく、めいめいが好きなものをつくったんですか?

そうです。だから、私は朝食を担当するわ、みたいになるべく楽をしようとする姉のような人もいれば(笑)、度胸があって奔放な妹は、とてもできないだろう!っていう献立にして、やっぱり無理があって手伝わされる羽目になったり(笑)。

──おもしろいなあ。究極の食育、というか、教育ですね。創意工夫や試行錯誤する力は、そこでもう鍛えられていたんだ。



あなたの食べたいものはなんですか?

──そういう素地の上に、料理にずっと関わってきたんですね。新潟の調理師学校を卒業されてからは?

ドイツ菓子店にパティシエとして4年ほど勤めたあと、23歳のときにオーダーメイドのケーキ職人として独立しました。当時、地元はカフェブームで、多くの厨房では素人がレシピ本を見ながらお菓子をつくっているような状況で。私は、その人たち……町中の飲食店の製菓製造をサポートしていたんです。
というのも、お菓子が欲しいときって、売られている完成品から選ぶことがほとんどだけど、そうではなくて、自分はこういうお菓子が食べたいんだっていう人はいないのかなって思ったんです。「俺の料理を食べてくれ!」っていうのが飲食店だとしたら、私は「あなたの食べたいものはなんですか?」っていう料理人になろうと決めたんです。

──フリーランスのパティシエなんて、他にいなかったでしょう? それを思いつくのもすごいけど、実行してしまうところがまたすごいですね。

自分で大発明だと思ってやってました。カフェの厨房の子たちはけっこう理想が高くて、あの店のああいうスポンジがいい、みたいな難しいオーダーを平気でしてくる(笑)。でもそれを実現してあげるってこと自体は、お店のオリジナリティにもなるし、売れればその人たちの成功体験にもなるので、すごくいいんじゃないかなと思っていたんですね。その人が実現したいことを、私は技術としてやるだけっていう立ち位置。

──そこですでに、相談にのってかたちにするっていうことをしていたんですね。


初めての上京と、13種類の仕事

そのころ、最初の結婚を機に上京したんです。相手はデザイン業界の人で、当時はデザインブームだったから、業界人がいっぱいいるみたいなパーティの日々。いやいや、これはちょっと無理だってなって、彼とは1年足らずで別れてしまいました。家を出てから2週間は、目黒駅前の漫画喫茶に泊まっていたんです(笑)。

──実家にも帰らずに。

いやあ、すぐ帰るのもつまんないなあと思って。で、住んでいた目黒しか知らなかったから、夜は漫喫で過ごして、日中は東京の街を見てまわって。そのあとは友人宅に泊めてもらったりしながら、半年くらいはそうやって過ごしたかな。
そうそう、結婚してるときも飲食店で働いてたんですけど、職場の先輩が働き方について悩んでいたので、オーダーメイドのケーキ屋の話をしたら、結局その人、いまそれをやってるんですよ。

──パクられちゃった!

うん。でもそのとき思ったのが、私が考えることって誰にでも作用できるんだなということ。場合によってはパクられたってことになるかもしれないけど、その人にプランをあげられたんだなと思って。それってつまり、プランナーの仕事ですよね。
で、本業のパティシエとしてIDEEやHIGASHIYA、クオカショップなどで働きながら、他に13種類の仕事をやってみたんです。

──それは、なぜに?

東京って仕事がいっぱいあるなーと思って(笑)。いっぱいあるし、やってみればけっこうできるものだなと思ったら、楽しくなっちゃった。半ば趣味みたいに求人サイトを見て、やれそうな仕事に応募して。ほとんどトリプルワークで、朝、昼、夜で違う仕事をしていました。すごくおもしろかったですよ。耳鼻科の受付とか。

──え、そういうのも?

だって、やれるタイミングってなかなかないでしょ? 玩具メーカーのデモンストレーターとか、東京ビッグサイトの場内アナウンスとか、テレフォンアポインターとか、ファミレスのウェイトレスとか。自分は何にでもなれるし、どうやっても生きていけるんだって、そこで自信がついたの。いまでも私は、いつでもレジ打ちから始められるって思ってます。



──そういう気持ちをもってるって、すごく強いよね。

うん。私は東京に憧れもなくて、自分では上京しようとも思っていなかったので、ある意味、気楽に試せてラッキーだったのかもしれないけど。いろんな人が、いろんな仕事をして、いろんな生活があって、というのを感じられたのは、すごくおもしろかったです。
だからもう、前の旦那には感謝ですよ。逃げ出してほんとごめんねって、いまは心のなかで平謝りしてますけど(笑)。でもそれがなかったらそういう体験はできなかっただろうし、すごくいいきっかけをもらったなと思ってます。

チャラチャラからの転換

──そして、新潟に戻ったんですね?

はい。2007年の新潟県中越沖地震のあとです。その前の地震のときに新幹線が止まって、すぐに新潟に戻ることができなかったのがずっと心に引っかかっていました。それまでは東京にいても簡単に帰れる気持ちでいたけど、帰れないこともあるんだって思い知って。東京にいたら、両親にあと50回も会えないかもって気がついちゃったんです。



で、5年ぶりに帰ったら、新潟は何も変わっていなかった。東京にはたくさん人がいて、いろんな場所がいろんな使われ方をしていたのに、新潟はなんだか手つかずだった。それで、使われていない場所を使ってみよう、自分が唯一できる料理の仕事で自分なりに生きていけるようになろうと、偶然出会ったふたりの料理人と一緒に「DAIDOCO」っていうケータリングチームを結成したんです。個人宅にお伺いしてフルコースをお出ししたりする仕事。

──それも、いまだったらそういう活動をしてる人はいるけれども……。

そう、当時はいなかった。最初は身内の紹介で、おもに70~80代の富裕層の人たちへ向けたケータリングだったから、DAIDOCOのフォントも高級感があるようにプラダっぽくしたり(笑)、その時点でディレクションをやってたんですよね。
で、クライアントに合わせてプランを考えていくなかで、いろいろ気づく機会があった。その人が誰とごはんを食べているかとか、どんな料理が食べたいかとか、みんなで食事するのはどんなときなのかとか。食卓を見つめれば見つめるほど、家族構成やコミュニティっていうものに問題意識をもつようになったんですよ。
どこで何を食べたいかを自分で自由に決められるのに、そこにまで意識をもったことがないっていう人たちがたくさんいて。誰と食べているかっていうことにも無意識で。もしかしたら、何を食べるかっていうことにさえ無意識かもしれない。でも、それに焦点を当てることで変えられる世の中があるかも、というのを徐々に感じていったんです。オーダーメイドのケーキっていうちょっとチャラチャラしたかわいいものから、郷土料理や家族、地域や農業をとおしたコミュニティといった方向にシフトしていったのはこのころです。



温泉街の、事件です!

──新潟市で開催された「水と土の芸術祭」のスタッフになったのは、再婚と出産を経たあとですよね。

はい。2011~2013年です。コミュニティや街づくりへの関心が高くなって、それをどう表現できるかなって考えたときに、行政の動きというのは地方自治ではかなり重要なので、それを知るためもあって。ちょうど募集が出ていたので、フードディレクターとして参加しました。普通の市の職員なので、起案を出したりとか。

──きあん?

ハンコを3つもらわなきゃいけない書類のことです(笑)。それを提出したり、資料をつくったり、自治体で物事がどう決まっていくかっていうのを、そこでは学んだ。そのとき私、髪の毛をピッと上でまとめてたんですよ。そしたら、どうやら裏でサムライって呼ばれてて。やることが過激すぎるからっていうことだったみたい(笑)。ちなみに、そう呼ばれているのを知って慌てておかっぱに変えたら、とたんに起案がとおるようになったんですけどね(笑)。単純なものですよねえ。

だけど、誰かがやれば前例ができて、世の中が変わっていくっていうのは、すごくそこで経験したんです。たとえば、いま地元の公共施設にインディペンデントな若手でも出店できるようになったのは、そのときにとおった起案が残っているかららしいんですよ。やってみて、目に見えて街が変わっていくってことを、このときは繰り返しやってみていた。


──うーん、仕事内容が想像以上に幅広いなあ。芸術祭が終わったあとは?

KOKAJIYAっていう、岩室温泉街にある古民家のレストランをディレクションしました。ここは、住人のおばあちゃんがいなくなって建物を壊すってなったときに、NPOが借り上げて公民館として使っていた。ランニングコストがかかるのに収入源がないって状況で、補助金がこれ以上は下りなくなるので再度取り壊す話が出ていたんです。そしたらDAIDOCOのシェフが、ここでレストランをやるって勝手に手を挙げちゃった。



そんなわけで、レストランというものをどう見出していくのかっていうところからディレクションしていきました。新潟のクリエイター30人くらいに参加してもらって、全員とそれぞれ話して、おのおのがその人なりに、この空間がこの先どうあるべきかを考えて表現してくれました。普通だったらこういうとき、誰かが決めて終わりっていうことが多いと思いますけど、いろんな人に聞いて、話し合って、そしてやってみるってことがいちばんだなと。今後、血縁だけでは維持できないこういう事態が増えていくだろう世の中で、そのシンボルにしよう、と。それで、この場所を使って私たちなりの街づくりを始めていくことになったんです。



──古民家でレストランをやるっていう単体の案件から、温泉街全体の再生プロジェクトに広げたんですね?

そうです。まずはレストランがオープンしてから1年後、地元の百貨店さんから地域で何かやりたいというご相談を受けて、百貨店催事場での「KOKAJIYA展」を提案、開催しました。このときの「わすれられると、なくなってしまうもの」っていうテーマは、1年間かけて私たちがたどり着いた答えでもあったんです。



他にも、このエリアならではのおもしろさを発信していきました。ここは海があり、山があり、潟を潰している土地なので土質もいろいろで、特殊な生態系をもつエリアなんですね。産品も少量多品種で、食べ物がいろいろあるってことは、つまり人間もいろいろな人がいるんですよ。そういう土地のユニークさでもって、自分たちの活動をとおしてさまざまなメディアに出ることで、この地域は確実に少しずつ変わっていった。
それでね、この5年間でどう変化したかというと、たとえばピンクバス(高速バスのWILLER EXPRESS)が乗り入れるようになりました。高速バスの停留所ができたので、岩室温泉街に東京から3,000円で来られるようになったんです。温泉街の事件ですよ!

混ざり合ってできる新しい香り

──最近のお仕事の代表作といえば「三条スパイス研究所」、通称「スパ研」ですね。「スパイスカフェ」の伊藤一城シェフも関わっていることもあり、とても話題になりました。



もともとは三条市の取り組みの一環で、私は地域コーディネーターとして起用されました。かなり福祉的に、高齢者の外出機会をつくる取り組みのなかで、飲食っていうものがどういう背景をもつべきかっていう読み取りからやりました。


スパ研の隣でもウコンは栽培されている
まずは、三条市はもともと社長が多い街なんですが、その有能な人たちが全員、高齢者になっているっていうことに気がついて。そのなかで、60歳になってから沖縄で出会ったウコンを持ち帰り、25年かけて地元での栽培に成功して、その地域にウコンの生産者が増えたっていう実績をつくったおじいちゃんに会ったんですね。生産者がみな高齢で供給が先細りなこととか、高齢者が健康食品として食べていることとかがこの地域のウコンの現状だったんだけど、より若い人たちに新鮮かつ楽しい気持ちでウコン=ターメリックを食べてもらうためのスパイス料理をつくったらどうだろうっていうアイデアが、その出会いから生まれました。
スパイスのようにいろんなものが混ざり合うことで新しいものが生まれていくっていう背景は、おそらく新しい公共を考えるときにすごく重要になるだろうと思っていて。いろんな人がその場所で混じり合い、街に新しい風味が自然と香り、滲み出していくような、そんなきっかけづくりを意識してやっています。



──スパ研では「朝イチごはん」という朝食の提供もやっていますよね。

朝ごはん事業自体は以前からあった、高齢者の外出を促して健康寿命をのばすっていう目的の三条市の取り組みでした。じつはこれがとんでもない赤字事業だったんですけど、取り組み自体はとてもいいと思ったので、仕組みから立て直しをして、スパ研の動きとともに再生したんです。スパ研の隣には600年も続いている朝市があるんですけど、朝市の人たちに食材の使い方を聞いて、朝市の新鮮な食材を使った定食を出しています。いまでは朝ごはんにも朝市にも、高齢者だけでなく、観光客や地元の子どもたちも集まるようになりました。地域で生きていくことに世代を超えて意識的になれるような未来に拓けた地域活動を、どこまで情報として飛ばせるかっていうのが私たちの役目になっています。



私自身も、いつか高齢者になったとき、どんな街で過ごすんだろうなあっていう意識が芽生えてきて。それは、街を自分ごととして考えるきっかけになるし、若い世代がそのことに気がつく機会になるんではないかと思って。小さな飲食店をきっかけに、自分の暮らしや街について立場を超えて一緒に考える機会が増えて、地域の取り組みが少しずつ意味あるものに変わっていくならなんでもしますっていうのが、私の役どころです。






それを知らずに世界を語るのか

──そのための手段、アウトプットまでの見えない部分のアイデアって、どこからヒントを得るんでしょう?

いちばんは、人とのつながりや出会いかな。もともとあるもの。新しいものじゃなくて、自分が知らなかった足元にあるものを知るようにする。世の中っていま、超個人主義の世界に変わってきてるじゃないですか。最後は脳だけで生きていくようなところまでいっちゃうかもっていうくらいに。だけど人間は本来、人と人との関わりがないとやっぱり生きていけないはずなんです。それがぐるっとまわってくるタイミングが、おそらくすぐに来るんじゃないか。そのときに、コミュニティとは、つながりとはっていうところを明確にしておかないとダメだろうなって。



暮らしの知恵って私がよく言うのは、だからなんです。ていねいに暮らすおじいちゃんやおばあちゃんを人生のお手本に学ぶ人が、もっと増えればいいなと思っていて。学べるものはやっぱり多いから、早くいろいろなことに気がつきたい。
だからおじいちゃんやおばあちゃんの話はすごく聞きます。あとはとくに農家さんですね。彼らはコミュニティのなかで生き、いまもこれからもそれが必要なんだと明確に知っているから。たとえば「子どもの分際」ってどういう意味か知ってます?

──ああ、「子どもの分際で!」って叱ったりしますね。

そうそう。でもね、農作業のときに、手が届かないとか、力が足りないとか、子どもだとどうしてもできない作業っていうのがありますよね。それを目の当たりにすることで、自分の立ち位置を知るっていうのが本来の意味なんですって。誰かが支えてくれなければ解決できないことがあるということを、地域のつながりのなかで知る。自分の立ち位置を理解して初めて、自分のいまできることに謙虚に取り組むことができる。それは、それぞれの立場で支え合うってことですよね。



農家さんにそう教えてもらって、すごくいい言葉だと思って、私も子どもたちに話したりしますけど、実体験が伴っていないとなかなか理解できないことも事実。結局、経験していないことを頭で考えて決めつけて、私たちは何も知らずに世界を語ってしまいがちじゃないですか。農家さんとかおじいちゃんやおばあちゃんはほんとに知恵の塊で、いろいろ教えてくれる。その言葉さえ聞いてれば死なないだろうっていうか、なんとかなるっていう気がします。

ひとしずくの、やさしい革命

──あゆみさんがやっていることって、水面にポチョンってしずくを落として、思わぬところにまで波及させていくようなことなんですね。

まさに! だから私の個人の屋号は、foodropっていうんですよ。

──なんと! それは私の読み取り力が鋭かったのか、あゆみさんの正確な説明の賜物か(笑)。それにしても、思惑以上の効果が多く発生しそうな仕事ですよね。

そうなんです。自分の想像を超えていくことが、自分以外の誰かによってつくられていくっていうのは、とってもおもしろい。
その波紋が広がるほどに、効果は大きいと思うから。でもその軸になっているのはほんとに小さなひとしずくだから、それはできるだけ派手にしないように注意してます。派手なことやっても世の中変わらないからね。まあ、嵐を呼ぶ女とも呼ばれるんですけど(笑)。



──派手だと、刹那的なインパクトはあるけどね。

でも、そのぶん反論もあるし。無理に大きなことはいたしませんし、新しいものもつくりません。そういうバランスをとれるのが、女子的な働き方なのかなあ。私、実績や取り組みの情報から男だと思われていることも多くて、実際お会いするとびっくりされるってことが多いんですけどね。

──それはわかる気がします。方法論が大胆だからかな。ただ、けっして男まさりというわけでも、キャリアウーマンふうというわけでもないよね。

うん、白いパンツスーツとか着ないしね(笑)。私はただ、とてもやさしい革命を起こしたいんです。


山倉あゆみさんの “仕事の相棒”
誰かの夢
「私の仕事って、ものがいらないので、すごく燃費がいいんですよね。唯一、絶対に必要なのは、誰かの夢や希望、ですね。それがないことには、私の仕事は始まりません。私自身はあまり何もしない人間なので、お声がけがなかったら家のソファに座ってるだけだと思う(笑)。そのくらい、自分がやりたいことっていうのは全然ないんです。誰かがやりたいことを叶える手助けが、私のやりたいことなんです」



インタビュアー

野村美丘(のむら・みっく)

1974年、東京都出身。東京造形大学卒業。『STUDIO VOICE』『流行通信』の広告営業、デザイン関連会社で書籍の編集を経て、現在はフリーランスのインタビュー、執筆、編集業。文化、意匠、食、旅、犬猫など自分の生活の延長上をフィールドに公私混同で活動中。座右の銘は「ひと文字ひと文字にキレあれ」。この連載の撮影を担当している夫とphotopicnicを運営している。
www.photopicnic.pics


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