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アノニマ・スタジオWebサイトTOP > わたしをひらくしごと もくじ > 第3話 ダンサー 林孝之さん

「働いて生きること」は、人の数だけ、物語があります。取材でお会いした方、ふだんからお世話になっている方、はたまた、仲のいい友人まで。これまでに出会った、他の誰とも似ていない仕事をしている「自分自身が肩書き」な人たちに、どのようにしてそうなったのか、話を聞きにいきました。

写真:藤田二朗(photopicnic)

自分の受けた衝撃と駆られた衝動に 真正面から向き合って

第3話 ダンサー 林孝之さん


アイリッシュダンスに突然、目覚め
脱サラしてそれに人生を賭けてしまったその人は
ものすごい向こう見ずさと、ものすごい冷静さの
対極な心を不思議に併せもっていた。
林孝之さんをひらく、しごとの話。

名前

仕事

ダンサー

この仕事を始めたきっかけ

自分のなかに感じてしまった可能性


林孝之(タカ・ハヤシ)
1973年、東京都出身。27歳のときにリバーダンス(*)の公演を観て感銘を受け、脱サラして単身アイルランドへ渡る。アイリッシュダンスのコンペ入賞を経、夢だったリバーダンスのダンサーに選ばれ、ツアーで凱旋帰国。2006年からは拠点を日本に移し、Taka Hayashi Irish Dance Academyを設立。ダンサーの育成、振付やパフォーマンスを行っている。2006年と2009年に「世界が尊敬する日本人100人」(『Newsweek』)のひとりとなる。2017年11~12月には「ザ・チーフタンズ来日公演2017」にゲスト出演予定。
http://irishdance.jp/blog/

*アイルランドの伝統的なダンスと音楽をベースに構築されたショー。直立させた上半身に対して足の動きで表現をするダンスが特徴。タップシューズのような音の出る靴を履いて踊る。とくに大人数での一糸乱れぬダンスは圧巻。



──どんな子ども時代でしたか?

小学校2年生のときに息ができなくなって。小児喘息になっちゃったんです。

──ということは、運動できなかったんですね。

少年野球のチームには入ってたんですけどね。でも走ればすぐゼエゼエするし、水泳すれば溺れそうになるし、剣道をやれば女の子に負けるしで、嫌にもなっちゃったんです。中学生になってからは部活も文科系で、運動は何もやってなかったんですが、中学3年くらいでちょっと良くなる兆しが見えてきて。

──小児じゃなくなってきたから(笑)。

もしかしたらちょっとできるかもって、運動し始めて。

──体を動かしたいという気持ちはずっとあったんですね。

ありましたね。高校ではサッカー部に入りました。ハーフが精一杯だったけど、それまでの自分に比べればずいぶん動けていました。それで、野球、サッカーとやってきて、団体競技っていうのは大人になったら人が集まらないとできないよなあ、と。長い目で見たら、人数が少なくてもできるスポーツをやったほうがいいのかなと。

──若いうちからよくそんな発想をするものですねえ(笑)。


なんにでもおもしろみは見いだせる


それで、大学では個人競技をやろう、そうだテニスだ、となったわけです。ただ、サークルで気軽にやるのもつまらない、どうせならガチで追い込めるのがいいなと思って。そしたら読んでいたテニス雑誌に、高校インターハイでダブルス優勝した梅田くんが青山学院大学に進学するって書いてある。そんなトップの人がいる環境でやりたいなと思って、僕も青学に進みました。梅田くん、全然知らない人だったんだけど(笑)。

──たかが学生が運動部に入るのに、将来を見越して個人競技にするとか、トップクラスの人のそばでやるとか、なぜそんなに冷静なんでしょうか。

それまでまともに運動できなかったから、体力を養いたい、身体を鍛えたいという気持ちがあったんですね。素人ながらも、やるならちゃんとやりたいし、そのためにはトップがプレーしているのを間近で見られる環境にいたいと思ったわけ。
当時の青学のテニス部って全国的にめちゃくちゃ強くて。部員もスポーツ推薦で入ったやつばかりで、僕みたいなど素人なんていなかった。でも、それを承知で入ってるからね。基本的には球拾いで、走り込んで、ちょっとだけ練習させてもらって、あとはコートの整備。夜中に水を撒いて、翌朝はローラーかけて、ライン引いて、みたいな。

──思い描いていたことはできたんですか?

どうしても主力中心になっちゃうから、練習については思ってたようにはできなかった。純粋にテニスの練習がしたかったのなら別の方法もあったと思う。ただ自分としては、こういう下積みっていうのは重要だなと感じてた。楽をしたら、そのぶんのものしか返ってこないと思ってたから。

──すごい冷静だよね、ずっと冷静だよね!

このときの経験というのは、じつはそのあとの自分にすごく役立っているんですよ。素人でダンスの世界に飛び込んだときに、ものすごい精神的なパワーの源になった。

──テニスというスポーツ自体は、純粋に楽しめたんですか?

たぶんね、僕、やってみたらなんでもすごい好きになるタイプなんだと思う。どんなものにも、おもしろさは必ずあるから。バスケットボールでも、ラクロスでも、やってみたらきっとおもしろがれると思う。だからなんでもよかったって言うと変なんですけど、そのとき目に止まったのがテニスだったんですね。

──そんなテニス部をやり遂げて。大学卒業後は就職したんですか?

はい。僕、固定観念がなくて、就職活動するときも幅広くいろんな会社を受けました。もしかしたら世の中には自分の知らない世界がいっぱいあるんじゃないかと思って。大学ではテニスばかりで、ある意味、視野が狭くなっていたともいえる。その点、就職活動っていうのは、いろいろな会社を見られるいい機会ですよね。

──出た、冷静な視点(笑)! 普通は職種を絞ろうとすると思うんですけども。たとえばどういう会社を受けたんですか?

釣具屋とか、化粧品メーカーとか、医薬品卸売会社とか。結局、リコーの販売会社に入ってSEになりましたが。

──決め手は?

なんだったっけなあ……いや、ちょっとわかんないです。

──ええっ!?

いろいろ受けたけれど、結局のところ、どこでも一緒だろうと思って。とにかく入ったところで自分の力を発揮すればいいわけだから。

──“なんでもおもしろがる”精神で。

うん。そこで3年働いて、コンサル会社に転職して。そこはハードで、初出社の翌日から地方出張に出て、そのまま週末だけ東京に戻るような生活を1年続けました。体力的にも精神的にもキツかったそんなころに、リバーダンスというものを知ったんですよ。


Dancing Beat(2013年)

情熱さえあれば


──私、1999年の初来日公演、観ました。

いいなあ! 僕が観たのは2000年の来日公演。アメリカでリバーダンスを観た同僚が、死ぬまでに一度は観るべきだって言うんです。ダンスなんてまったく興味なかったけど、そこまで言われたら自分の性格上、観ておかないわけにはいかない。それで観にいったら、うわー、こんなものがあるんだ! 人間ってすげえ、明日からがんばろう! そんな気にさせられる舞台でした。
そのときやっていたコンサルの仕事も誰かの役に立ってたとは思うけれど、この身体表現はダイレクトで人に響いてしまう。これができたら人生楽しいだろうな、自分の価値観も変わるだろうなと。で、自分のマックスの力で挑めば、もしかしてできるんじゃないかな? と思ったんです。

──私もあの舞台を観て大感動したけど、そういうふうにはまったく思わなかったなあ(笑)。

でも、できたら、そこに行けるわけでしょう。また明日からがんばろうって人に思わせることが自分にもできるかもしれないと思ったら、挑戦しないわけにはいかなくなった。自分のなかに可能性を感じちゃったんです。そのときの仕事には満足してたんですけど、このまま60歳くらいになって当時を振り返って、あのときあっちの道に行ってたらどうなってたかなって思う自分は嫌だと思った。それだったらやってみたほうが絶対いいよなって。

──でも当時、日本で習えるところなんてなかったのでは?

そう、現地に行くしかない。ということは仕事も辞めなくちゃならないし、お金もかかるしで、さすがに1年、悩みました。その間、自分なりにできることをやろうと思って、ビデオを見ながら見よう見まねで練習したんです。仕事から帰ったら、板を持って、河川敷に行って。

──!!





その河川敷は上に高速道路が通ってるから、音を出してもかき消されて迷惑にならないんですよ。で、自主練を終えて、帰宅して、風呂に入って寝るという日々を送りました。それを本気でできないようなら、現地に行ったところで何もできねえよって思ってたから。で、この気持ちが続くようなら渡航しようと思ってたんだけど、気持ちが続くどころか、これはもう行かなきゃどうにもダメだって思うようになってしまった。それで、仕事を辞めて、行ったんです。

──そんな、一言で言いますけども(笑)。何歳くらいのときですか?

もうすぐ28歳になろうというとき。初めて舞台を観た1年後の2001年ですね。

──大の大人が安定した仕事を捨てて。そして行ったとて、アテがあるかというと……。

ないんですよー、これがまた(笑)! とりあえず、アイルランド第二の都市のコークに向かいました。コーク大学でアイリッシュダンスの歴史を教えている先生がいたから。その人が書いたアイリッシュダンスの本を取り寄せて読んでいたんです。その人に訊けばダンスクラスなんてすぐに見つかるだろうという目論見で。

──逆に言えば、その手がかりだけでいきなり現地へ行ってしまった。

そうです。

アイルランドのパブにて(2004年ごろ)

──アポも取らず。

アポも取らず。

──アイルランドに行くのも初めてで。

初めてで。

──英語は話せたんですか?

いや、全然。だから向こうで語学学校に通うことも決めてました。でも英語でよかったよ。これでゲール語とかだったらどうなってたか。

──障害なんて関係ないんだね、決めちゃったら。

うん、決めちゃったらね。




突破口を探して路上へ


──どのくらいの期間のつもりで行ったんですか?

3年。

──いきなり、そんなに!

仕事をせずにダンスの練習と語学学校に通うことと、貯金とを照らし合わせて、3年間ならなんとかできるだろうと見積もったんです。それに3年間一所懸命やって身にならなかったら諦めようと。ダメでも真剣にやったのならそれでいいと思ってました。
だけど行ったはいいけど、最初は先生が全然見つからなくて。コーク大学の先生には会うことができていろいろ教えてもらえたものの、アイリッシュダンスはいわば伝統芸能で、やる人は幼少時からやってるけど、一般人が広く習い事でやるようなものではない。片っ端から連絡してみたけれど、未経験の大人を受け入れてくれるところが全然ない。ほんとに困ってしまって、それで……ビデオを見ながら自主練習(笑)。これじゃ日本と変わらないでしょ! っていう。

──リバーダンスのカンパニーの門を叩かなかったのはなぜなんですか?

リバーダンスのダンサーになるためには、アイリッシュダンスの世界選手権で入賞するレベルのオーディションに受からなければならないんです。リバーダンスはアイリッシュダンスをベースにしたショーなので。

──そうか、プロ集団なんですね。

要は劇団四季みたいなもので、素人がいきなり行ってもダメなんです。アイリッシュダンスのコンペでの入賞実績が、リバーダンスのダンサーの基準になるから。

──なるほど。だからまずはアイリッシュダンスを学ぶ必要があったんですね。

そう。そのまま数ヶ月過ぎて、自分が本当に求めていたものがなんなのかがわからなくなってきてしまった。それで今一度リバーダンスを観てみようと思って、サンフランシスコに行ってショーを観ました。やっぱりこれだよなあと思って、どうしてもダンサーに会いたくなって、出待ちしたんです。プリンシパル(主役級ダンサー)のマイケル・パトリック・ギャラガーと話すことができて、自分の境遇を説明したら、翌日のリハーサルを見せてくれることになって。そこで彼に「将来、一緒に踊れたらいいね」って言われたんです。その一言で、苦しいけどがんばらなきゃって、火がつきました。
これまでのやり方の延長だと埒があかないので、ストリートパフォーマンスを始めました。自己流でめちゃくちゃだし恥ずかしいんだけど、そうでもしないと何かを変えることはできないと思って。何かしらの情報をもっている人が、声をかけてくれるのを期待して。

コークでの路上パフォーマンス(2002年)

──ツッコまれ待ちだ。

そうそう! もうそれしかないと思ったの。だって、日本に来た外国人にいきなり歌舞伎を習いたいって言われても困るでしょ? いうなれば、僕のしていたのはそういうことだった。

──道端で、見よう見まねで見得をきっている外国人から「歌舞伎はどこで習えますか?」って尋ねられたら、たしかに面食らうよね(笑)。

夢の共演を伴った、夢の実現

自分の想いだけが強くて、実際的な部分の考えが抜けてたんだよね。でも、おかげでメディアにも取り上げられたりして、誰でも参加できるワークショップがダブリンで開催されるって情報をキャッチして。それへの参加がきっかけで、そのワークショップをやった先生の個人レッスンを受けられることになり、バスで片道4時間の距離を毎週通いました。
それで自分のダンスが大進歩して、アイリッシュダンスのコンペティションに出ることになったんです。でも、めちゃくちゃ緊張してしまって、ボロボロで全然ダメで、ビリになってしまった。ほんとにヤバい、絶対になんとかしないといけないと思いました。そんなとき、スペシャルオリンピックスの開会式でリバーダンスが披露されることになり、そのためのダンサーを募集してるから挑戦してみないかと先生に言われて。そのチャンスをつかむためにも、次のコンペはもう絶対に失敗するわけにいかなかった。

──そう思えば思うほど、プレッシャーがかかりますね。

そう。だからそれをもはねのけて結果を出さないと、プロにはなれないと思いました。あんな重圧の下でやったのはあとにも先にもありません。そのコンペでは勝つことができて第一関門をクリアしたので、リバーダンスのオーディションに挑みました。それが本当におもしろかった。上手な人と一緒に踊ると、ステップがシンクロナイズして、自分の音以上の音が出る。これはものすごく楽しいぞ! と。スペシャルオリンピックスでは100人のダンサーのひとりとして踊ることができたんですが、あれは自分史上いちばんの晴れ舞台でした。

──リバーダンスの初舞台を踏んだってこと?

踏んじゃったんですよー(笑)! ただ、あくまでもそのとき限りで、恒久的なツアーメンバーではなかったんですけどね。でも、そのときにまわりのダンサーを見て、やっぱりすごいなと。自分ももっとスキルアップしたほうがいいなと感じて、アイリッシュダンスの競技を続けることにしました。
じつは、そのときのリバーダンスのプリンシパルから、新しいショーを立ち上げるから参加しないかって誘いがあったんですが、お断りしたんです。いまは自分が本当につけるべき力を突き詰めるべきなんじゃないかと。カンパニーに入ってしまうと、それだけの練習になってしまうから。

──すごいな。直々に声をかけられたというのに。

うん。まだ早いと思ったんですね。それでスカラシップをもらって大学院のダンスコースに通いました。途中、怪我をしてしまうなど紆余曲折あったんですが、そんななか、リバーダンスが日本公演をやるらしいって情報が入ってきたんです。それでオーディションを受けて、合格して。

──晴れて、2005年のツアーで凱旋帰国したんですね!

「いつか一緒に踊れたらいいね」と言ってくれたマイケル・パットと同じステージに立ったんですよ。

──わー、鳥肌立つ! でも、それを言われてから3年後か。けっこう早く共演が実現しましたね。


リバーダンスファーイーストツアー(2005年)


同舞台でマイケル・パット(中央)と約束の共演を果した



なんのために踊る?


──日本に戻ってきたのはいつなんですか?

来日公演で盛り上がっているうちに日本で活動を始めたほうが何かといいのではと思って、翌年の2006年に帰国しました。

──帰国してすぐに教室を開いたんですか?

そうです。企業のイベントとか、学校の芸術鑑賞会とか、映像作品への出演とか、アーティストとのコラボレーションとか、活動はいろいろやってますけど、なぜレッスンしているかというと、体の動くうちに人に教えておきたいからなんです。

──人に伝えたいという気持ちがある?

もちろん。だって文化は自分が習得したものを還元していくという側面があると思うから。自分の作品として残すこともあるけど、それだけで終わっちゃって、このダンスをやる人は日本ではほとんどいないってなってしまうのは、ちょっと淋しい。自分がアイルランドで教わったものを伝えていくことは必要なことだと思ってます。芸事だけでなく、職人の世界でもなんでも、自分の技術が後世に伝わったらいいなって思わない人はいないんじゃないかなあ。


──タカさんはいま、なんのために踊っているの?

ひとつは、自分がリバーダンスから受けた衝撃を、誰かに還元したい。

──やっぱりそこなんだ。

自分が受けたものを還す。それが伝統であるかどうかは別にしても、文化の流れというか、その動きのなかのひとりではいたいと思う。

Taka Hayashi Irish Dance Academy 3rd リサイタル(2014年)

──アイリッシュダンスから見ればタカさんは外国人なわけですが、その特異なポジションについてはどう考えていますか?

リバーダンスの経験も踏まえたアイリッシュダンスを日本語で理解して日本語で教えられるのは、世界で自分しかいない。現地ではトラディショナルな競技ダンスを教えているスクールばかりなんだけど、僕のやるべきはきっとそこではなくて。もっと自由な踊りというか、リバーダンスを見て純粋に衝撃を受けて、やりたい衝動に駆られた人のためになんとかしてあげたい、という気持ちが強い。

──自分が体験したのと同じ衝撃と衝動を生かしたいんですね。それとやっぱり、体を動かすことに根本的な喜びもあるんでしょうね。

昔、思うように運動ができなかったから、そのぶんを取り戻したいのかも。

──もうとっくに取り戻してると思いますよ(笑)!




林孝之さんの “仕事の相棒”
ダンスシューズ
「アイリッシュダンスは靴が楽器なので、靴がないことには成立しません。練習用のはどんどん履き潰してしまうのですが、いま手元にあるのは30足くらいかな。この靴は特別で、ヒールをアイルランドから取り寄せて、日本でタップシューズの職人にフルオーダーしたもの。全部で3足つくってもらったんだけれど、2足はもう壊れてしまって残るはこれ1足なので、大切に使っています」



インタビュアー

野村美丘(のむら・みっく)

1974年、東京都出身。東京造形大学卒業。『STUDIO VOICE』『流行通信』の広告営業、デザイン関連会社で書籍の編集を経て、現在はフリーランスのインタビュー、執筆、編集業。文化、意匠、食、旅、犬猫など自分の生活の延長上をフィールドに公私混同で活動中。座右の銘は「ひと文字ひと文字にキレあれ」。この連載の撮影を担当している夫とphotopicnicを運営している。
www.photopicnic.pics


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