タイトルデザイン:峯崎ノリテル ((STUDIO))

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「働いて生きること」は、人の数だけ、物語があります。取材でお会いした方、ふだんからお世話になっている方、はたまた、仲のいい友人まで。これまでに出会った、他の誰とも似ていない仕事をしている「自分自身が肩書き」な人たちに、どのようにしてそうなったのか、話を聞きにいきました。

写真:藤田二朗(photopicnic)

みんなの長所を結集させた本づくりで、世界をちょっとよくしたい

第14話 ニーハイメディア・ジャパン ルーカス B.B.さん


日本の魅力にいち早く気づき
まだ誰もやっていないアプローチで世に送り出す。
時代より先を、ちょっといきすぎているくらいのスピード感。
その柔和な表情とは裏腹に、きっと明晰な頭脳。
だけどその人生の半分以上、日本に暮らしているからだろうか。
どんどん日本人の顔つきになってきている気がする。
ルーカス B.B.さんをひらく、しごとの話。

名前

仕事

クリエイティブディレクター、編集人

この仕事を始めたきっかけ

友だちからの質問


ルーカス B.B.
1971年、アメリカ・ボルチモア出身。日本が心の故郷のアメリカ人。大学卒業翌日に初来日、そのまま東京に定住。1996年、アメリカで「Knee High Media」を創業、翌年「ニーハイメディア・ジャパン」を設立。以来、『トキオン』などカッティングエッジな数々のメディアを手がけてきた。トラベルライフスタイル誌『ペーパースカイ』やパパ・ママ・キッズのための『マンモス』を制作・発行する他、自転車や音楽などのイベントも展開中。
www.khmj.com



言霊ことだまの本領発揮

──どうして日本に来たんですか?という質問はこれまでおそらく何百回とされてきただろうけれども、その答えにはいくつかバージョンがあるじゃない? 今回はロングバージョンでお願いしたいんです。いままで話していないようなこともあれば、ぜひ訊きたくて。

いいですね。どんどん引き出してください(笑)。

──今回のインタビューにおける私のチャレンジは、ルーカスの話す日本語をどこまで活かした原稿にするか。日本語は上手ではあるけれども、けっこう癖がありますよね。でも雑誌やウェブで見かけるインタビュー記事では小慣れたしゃべり方に変換されているのがおかしくって。なのでなるべくそのまま伝えたいなと。




そうだね。でもあんまりそのままだと、なんでこんな人にインタビューしたのって感じになっちゃうから気をつけて(笑)。だけどね、僕、英語も癖があるのかも。いろんな国でいろんな人に会うけど、僕がアメリカ人ってみんななかなかわからないみたい。複数の言語が話せる人に会うと、英語が苦手なら違う言葉で話そうか?って言ってくれるけど、僕の母国語は英語だから!

──英語も日本語も通じない場所に行ったときの、おもしろい話があるじゃない?

ああ、スペインのマヨルカ島だね。スペイン語は僕はほとんどできないし、英語も日本語も通じないから、諦めて日本語で話してみたら、それがいちばん通じた。たぶん勝手の解釈すると、日本の言葉はスピリットが入ってると思う。

──言霊ね。

そう。気持ちが通じる、生きてる言葉だっていうのを確かめられたというか。わかってないけど、さっきよりはわかってるっぽいなって。で、日本語で話すようにしてからはいいことが起こるようになった。オレンジやアイスをもらったり、タクシーにタダで乗せてもらったりとか(笑)。




──日本語はどうやって習得したの?

日本に来てから。友だちとしゃべるがいちばんだけど、日本語学校も半年くらい行って。生徒はほとんど中国人とか韓国人だった。仲よかった学校の友だちが中国人で、彼は英語がわからないし、僕は中国語がわからないから、お互い日本語でしゃべるしかない。

──それでルーカスの話す日本語は、ちょっと中国人のしゃべる日本語っぽいんだよね。日本に来る前は何をしてたんですか?

小学生のときから本をつくってた。学校の新聞とか街の新聞とか、記事を書いて、編集して、デザインして。

──40代半ばにして、エディター歴約40年。

完成のイメージがないとつくれないから、妄想と編集はマッチングがいいと思う。そこで何をどうやって伝えていくかが大事でしょ。そのプロセスのなかで、チームのみんなの気持ちや目的を通じ合わせる必要がある。言霊と一緒で、具体的に目には見えなくても、誌面にそれは表れると思う。

──空気感はどうしたってにじみ出ますね。




買われた探偵の腕

──じゃあ、子どものときからやってることは変わらないんだ。

うん。3歳くらいからそんなに変わってない(笑)。昔の写真を見ても、いまと見た目がそんなに違わないし。

──外見も中身も変わってないって、ちょっと問題ありません(笑)?

だね。でもひとつ、たぶん人生に大きく影響してるのは、すごい病気をしたの。ネフローゼという、けっこうそれで死んじゃう人もいっぱいいる。それが3歳から高校生くらいまでずっと続いただね。入院して、注射をいっぱいして、強い薬を飲んで。それがあったから、生きてることがラッキーという感覚がある。

──完治したの?

完全かはわからないけど、入院するほどとか、そういうのはなくなった。でも病気したとしないとでは、世界の見方が変わってくると思うから。




──自分がこれでごはんを食べていくんだってはっきり決めたのはいつ?

本づくりを仕事にする前に、働き出したのは、大学のときから。親と喧嘩して学費を自分で払わなければならなくなって、いっぱい働くようになったんだけど、それだけでは足りないから、株もやって。

──知らなかった!

それでもまだ足りないから、サンフランシスコの警察の部署で探偵のバイトして。

──それは知ってた(笑)!

僕、探偵がめっちゃ向いてる。探偵と編集、仕事の内容が一緒だと思う。だからたぶん、ミックさんも探偵できるよ。

──そうかも。リサーチが肝要だもんね。

そう! リサーチと、あと取材。人に聞いた話をまとめていく。そこのスタッフより学生の僕のほうが仕事ができたから、3年間やったあとにスカウトされたんだけど、日本に行くことにしたから。




ウィンウィンのおにぎり


──日本にはどうして興味をもったの?

サンフランシスコの紀伊國屋書店で、日本の雑誌を見てびっくりしたのがきっかけ。僕、大学の劇の衣装デザインをやったりもしててファッションも好きだったんだけど、日本のファッションは「コム・デ・ギャルソン」にしても「ヨウジヤマモト」にしても、センスが全然違っててすごいって思った。雑誌のデザインもかっこいいし、文字も英語じゃない言葉が並んでておもしろいし、いっぱいびっくりした。
大学ではアメリカ文化を勉強したからアメリカのことばっかり見てたけど、まわりにはいろんな国からの移民の友だちがいて、言葉と文化がいろいろあるのはおもしろいなと思ってた。卒業したら自分の知らない世界を見てみたいと思って、それで日本に行ってみたい、と。




──おにぎりが好きだったって話は?

おにぎり自体は小学生のときから食べてたよ。ランチタイムは学校の購買でチョコレートミルクを買って、ジミーからおにぎりを買ってた。でもその時点では、それが日本のおにぎりっていう食べ物だってことはわからない。日本に来てから知っただね。

──日系人の友だちから、彼のお母さんがつくったおにぎりを買い上げてたんだよね。

そう。ジミーはたぶん、友だちがおにぎりを気に入ってるとお母さんに話して、予備をつくってもらって持ってきてたんだと思う。

──もしかしたら彼はそれで儲けてたのかも。

でも普通のランチ買うより安いのにおいしくて、僕も助かってたから、ウィンウィンだね(笑)。




ノープランで初来日


──卒業旅行で来日したんですよね?

卒業式で、黒いガウン着て四角い帽子投げるじゃない? あの帽子投げて、次の日に日本に来たの。

──次の日! 小さいデイパックひとつ背負って。

そう。旅経験なしだから、全然わからないから。

──いまや旅の達人のルーカスが、初々しいなあ(笑)。成田に降り立って、さて、どこに向かったんでしょう?

それまた説明しなければならない話がある。僕の大学とICU(国際基督教大学)が姉妹校だったから、ICUの学生がたまにうちの大学に留学に来てた。その人たちに学内を案内するバイトもしてたんだけど、この日に僕は日本に行くから、誰か迎えにきてくれないかって声をかけた。でもそれ、ちょっとドキドキだね。いまはEメールで確認できるけど、当日まで本当に迎えにきてくれるかわからなかったから。

──迎えにきてくれた?

うん。でも、とりあえず迎えにくるだけの約束だったから。で、東京まで連れてきてくれて、そのあとどうするかわからない。僕もノープラン。じゃあとりあえずうちにおいでって、彼の家に連れていってくれた。でも僕が来ること家族は誰も知らないから、家族会議になって。
その家族は、お父さんの仕事の都合で大阪から来ていて、とにかくまずごはんを食べようって。ビールを飲みながら、阪神の試合をテレビで見て、そのあとまた、じゃあどうするって話して、まあお風呂でも入ったら?って。

──家族会議がいっこうに進まない(笑)。

で、お風呂上がって、またどうするかって。とりあえず今夜は泊まってったらって。で、朝起きたらみんなもう出かけてて、お母さんと僕だけ。夜になってみんな帰ってきて、ひとまず、うちにいていいよってなった。それで日本、いいところだなと思っちゃった。
その家のお兄ちゃんがちょうど仕事を探してて、アルバイト雑誌を見て電話して面接に行ってる。そういうふうに仕事を探すだなと思って、僕も英字新聞を買いにいって、仕事募集欄をチェックした。でも土地勘がないから最初は長野に面接に行っちゃった。めちゃ遠かった(笑)。

──なんの仕事?

探偵以外だと、英語を教えるしかない。

──日本で探偵するには、そのルックスは目立ちすぎるしね(笑)。

だから英語しかない。結局は横浜で子どもに英語を教える仕事に就いて、1年くらいやってた。



アメリカンドリーム・イン・ジャパン


そんなとき、日本で就職した学生時代の友だちに、「ルーカスはずっと雑誌をつくってたのに、なぜいまはやってないの」って言われた。自分でそのこと忘れてたよ。

──仕事とつなげては考えていなかった。

そう。そういえばそうだなと思って、本つくろうかなと。『ジャパンタイムズ』で記者の仕事もしてて、そのときはまだいまみたいには有名じゃなかったけど「アンダーカバー」の(高橋)じゅんさんとかNIGOくんとか(藤原)ヒロシくんとか、気になった人たちにインタビューしてたから、そういう人たちに協力してもらって自分で本つくろうとそこで決心した。それが1995年。

──会社を設立したのは?

アメリカで会社登記したのが96年。日本で有限会社をつくったのが97年。こういう本がつくりたいって最初にデザイナーのポール・スミスにプレゼンしたら、おもしろがって出資してくれることになったんだけど、個人名義の口座には振り込めないって。だから、本をつくるために必要で会社をつくった。300万円ないと有限会社はつくれなかったんだけど、そんなにお金もってないから、お金持ちの友だちに1ヶ月だけ300万借りて。1ヶ月間、300万円があることが銀行で確認できればいいというから。

──もつべき友はお金持ちの友だね。

よく貸してくれたよね。で、銀行のいろいろ手続きをして、OKになって、借りたお金はすぐ返して、「ポール・スミス」がお金を振り込んでくれて。




──それでめでたく『トキオン』が誕生したんですね。最初は何部くらい刷ったの?

1万部くらいつくったじゃないかなあ。最初は全部日本で刷って海外に送ってたけど、送料がすごいかかるから、途中からは日本版は日本で、アメリカ版はカナダで刷った。あと香港の出版社が興味をもってくれて、香港版も出した。

──へえ! なんだか、アメリカンドリーム・イン・ジャパンだね(笑)。

そんなことないよ、ぎりぎりだよ!

──でも、よくやったよねえ。異国の地で、しかも出版業界にいたわけでもないのに。

若い、すごいよね。

──『トキオン』のコンセプトは?

当時はゲイシャやサムライのイメージしかなかった日本の文化を、海外の若者に紹介したかった。




──外国人に日本を紹介したかった?

それだけじゃなくて、日本人が、日本の文化をおもしろがってほしいなと思って。僕は日本に来て、こんなにおもしろい文化がたくさんあるとびっくりしたのに、僕のまわりの日本人自身はあんまりそのことをわかってない。なのに、アメリカやヨーロッパの文化はめちゃ詳しい。それはそれでいいけど、日本だっておもしろいよって日本人に気づいてほしかった。

──沢田研二を表紙で撮り下ろししたり、植田正治に鳥取砂丘でフォトシューティングしてもらったり。

植田さんはあれが最後の撮影だったと思う。そのあとすぐ亡くなっちゃったから。

──なんと、遺作とは!




温泉みたいに快適


──デイパックひとつで日本に来て、ほぼそのまま今日まで日本にいるんですよね。

そう。ビザをとるためにアメリカに帰ることはあるけど、帽子投げた次の日から、住まいはずっとこっちだね。

──なんでそんなに日本が気に入っちゃったんだろう。

最初は、やっぱり人だね。僕を住まわせてくれた家族と会えて、こんないい人たちがいるだな、というのがひとつ。あとは、うどんがすごい気に入って(笑)。野菜がたっぷり入ってるけんちんうどんを毎日昼ごはんにしてた。お金をかけずにそれで1日サバイブできるから。うどんだけじゃないよ、日本は食べ物がおいしいなって思って。
あと、安全がすごい大きい。アメリカでは、日常にものすごく緊張感をもってないと生活できない。この人に何をされるかとか、あそこに行ったら危ないかもとか、つねにそういう頭でいるから、すごい疲れる。アメリカから日本に来るとそういうガードがなくなっちゃうから、働いたあとに温泉入ったときみたいな、シューッと抜けた気持ちになる。すごく楽。



あとは、国が小さいなのに、アラスカとハワイみたいに違う風土があるじゃない? ちょっと行くだけで文化とか景色が変わるが、すごいおもしろい。それがアメリカだと飛行機で何時間も飛んで、クルマで何時間も走って、やっと景色が変わる。

──そうだね。東京でも、中央線に乗ってるだけで都心から山まで行っちゃうもんね。

いまは前より新幹線も増えたし、飛行機でどこへでも行ける。『スター・トレック』みたいにすぐポッポッポッて行ける感覚がすごいおもしろい。

──ルーカスは、生まれる国をまちがえたのかも。

そうかもしれない。でも、アメリカも嫌いじゃないよ。

──だけど、アメリカに2週間も滞在してると日本に帰りたくなってソワソワするって言ってたでしょう。もはや日本がホームタウンになっちゃってる。

たしかにホームはここだね。でも、たまに行くは好きだよ、アメリカ(笑)。




少しでも世界がよくなるように


──雑誌づくりはネットワークづくりだとも思うけど、どうやって人間関係をつくってる?

みんなそれぞれおもしろいものもってると思うから、それを探るのが好きというか、その人のいいところを取り出す。好奇心だね。
9歳下の弟がいるんだけど、アメリカにいたとき、弟たちのサッカーや野球のチームのコーチをよくやってた。みんなすごく練習して、コミュニケーションをとって、弱いチームだったのにチャンピオンになったりする。それってみんなのいいところを引き出していいチームにしていくってことでしょ。




──それに、ルーカスって人たらしだよね。憎めなかったり、助けてあげたい気持ちにさせるところがある。

きっと、僕はいろんなことができないからだね。すごいできる何かひとつはないけど、浅くいろんなことに興味もったり、したりはできるから。

──できる人を知っていて、その人に頼めばいいんだものね。そうじゃないと雑誌はできない。

そこがおもしろいよね。でも、本はメッセージとか社会性をもたせて、人のメンタリティを変えていける力がある。本は好きでつくってるんだけど、もっといい世界をつくっていきたいなってすごく思う。




──壮大だ。

人間、それぞれ思うことはいろいろあるかもしれないけど、僕らがこの場所にいる間に、自分ができる何かしらで、できるかぎり世界をよくしていく。僕がいるから少しでも世界がよくなる、ミックさんがいるから世界がちょっとよくなるっていうふうに。

──みんながそれぞれに生きて仕事することで、世界が少しずつよくなる。

うん。僕は、なんでこの仕事をやっているかというと、本をつくることで、世界をちょっとよくする努力をしてるつもり。

──でも、たしかにそうですね。どんな仕事であれ、それをすることで誰かの役に立ったり、誰かが幸せになったりするようなものでありたい。人が嫌な気分になったり不幸な気持ちになったりするのは、できれば避けたいよね。

どんな職業もそうと思う。バスの運転手でも、いつも気持ちのいい挨拶をして、車内をきれいにしてる人もいれば、お客に不機嫌な態度で、乱暴な運転をする人もいる。

──自分の気持ちしだいで、どんなふうにも変えられますよね。




〝いい頑固〟で解決に向かう


──それにしても、けっこうな数の人と仕事してるでしょう。『ペーパースカイ』だって特集ごとに違うチーム編成を組んで旅に出るわけだし。苦手な人がいたりしない?

合わない人はいるけど、意識的にこの人は嫌だっていうのは、あんまりないよ。

──ほんとにィ~(笑)?

ないだね。少なくとも僕と一緒に仕事する人は。みんな絶対、いいところはあるから。

──人格の全否定はしないってことか。




さっきのバスの運転と同じで、やってることに真面目に向き合ってるかどうか、それ大きいね。そこさえあればたぶんOK。子どもチームのコーチと同じで、本人にサッカーやりたい、野球やりたいって本気の気持ちがあれば、いいところを引き出して伸ばすことができるから。人のいいところがおもしろいと思う。それが自分の刺激になるね。

──でもルーカスってすごく頑固で、そのことで人とぶつかることもあるじゃない?

トラブルつくるため、悪い意味でぶつけるんじゃないよ。 解決に向かうためだから。




──でも、だいたい自分の主張は曲げないじゃん。

けっこう諦めないね(笑)。

──その頑固さは私の知り合いのなかでもピカイチですよ。だから、まわりの人はその頑固さを受け入れてくれてるんだよ。私も、もはやその頑固さにムカつかなくなったもん。

悪い頑固じゃないからね。

──それは自分で言うことじゃありません(笑)。

よくするための頑固は、大事もあるだなと思う。

──まあ、ものづくりするうえにおいては、たしかにそうですよね。編集長だし。真面目な話、私もその頑固さとときには相対しながら、ルーカスとの仕事で私自身の宝となるような経験をたくさんさせてもらいました。

本つくるのは、ひとりじゃできないからね。人と一緒に力をうまく合わせてでき上がるもの。そのプロセスがすごい楽しい。いろんな人と協力することで、結果的にちょっと夢のような妄想が、実現できるから。

ルーカス B.B.さんの “仕事の相棒”
香織さん
「香織は『トキオン』創刊のときにスタッフ募集で来てくれてから、ずっと一緒に本をつくってる。結婚もしたから、家でも仕事でもパートナー。うちの会社のユニークなところは、僕らふたりのいいバランスでできてると思ってる。男と女ということもあるし、外国人と日本人ということもある。これがないとダメっていう執着は、できればないほうがいいと思ってるけど、香織はいないと困る」



インタビュアー

野村美丘(のむら・みっく)

1974年、東京都出身。東京造形大学卒業。『STUDIO VOICE』『流行通信』の広告営業、デザイン関連会社で書籍の編集を経て、現在はフリーランスのインタビュー、執筆、編集業。文化、意匠、食、旅、犬猫など自分の生活の延長上をフィールドに公私混同で活動中。座右の銘は「ひと文字ひと文字にキレあれ」。この連載の撮影を担当している夫とphotopicnicを運営している。
www.photopicnic.pics


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