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「働いて生きること」は、人の数だけ、物語があります。取材でお会いした方、ふだんからお世話になっている方、はたまた、仲のいい友人まで。これまでに出会った、他の誰とも似ていない仕事をしている「自分自身が肩書き」な人たちに、どのようにしてそうなったのか、話を聞きにいきました。

写真:藤田二朗(photopicnic)

自分で見届け、自分で始末をつけて、ともに生きる

第10話 立花テキスタイル研究所 新里カオリさん


彼女が何事も当然のように粛々とやっているように見えるのは
それが一過性のイベントではなく、生活の一部だからだ。
野菜を育てるのも、獣をほふるのも、廃材で染色するのも。
海と山の恵み豊かな瀬戸内海の向島むかいしま
新里カオリさんをひらく、しごとの話。

名前

仕事

循環型染織研究家

この仕事を始めたきっかけ

ディル・チフーリ展のポスター


新里カオリ(にいさと・かおり)
1975年、埼玉県出身。武蔵野美術大学大学院造形研究科テキスタイルコース修了。院生時代に「工房尾道帆布」の立ち上げに関わる。2008年、尾道に移住し、株式会社立花テキスタイル研究所を創設。地元の廃材を使うものづくりと、農業や狩猟による“自分で始末をつける”暮らしを追求中。自身のラジオ番組『新里カオリのうららか日曜日』(RCC中国放送)では第55回ギャラクシー賞の優秀賞を受賞。
https://tachitex.com/



尾道帆布にいざなわれて

──尾道との出会いは?

大学院生のときに旅行で来たのが最初。広島市現代美術館で開催されていたディル・チフーリ展(1999年)のポスターが大学の構内に貼ってあって、それを見たのがあと1日で会期が終わるという日だったの。どうしても見たくて、友だちを誘ってその日の夜行バスで広島に向かったんです。

──いい行動力!

若いよね。で、展覧会を見終わったころに、その友だちのお母さんからたまたま電話がかかってきて、広島にいると伝えたら、だったら尾道に寄ってみなさいと。そのお母さんっていうのがジャーナリストでね、数週間前にちょうど尾道を訪れたばかりで、そのときに取材した方を紹介してあげるから、おいしいお店でも教えてもらえばいいじゃないって。
で、尾道駅でその人、木織雅子さんと待ち合わせて。ごはんを食べに連れていってくれて、いろんな話をしたんです。木織さんは吉和よしわ家船えぶねの子どもたち(*)を陸に上げて就学させる活動をかつてしていて、そのことで友だちのお母さんが取材したわけなんだけど、家船は帆船で、帆布が使われていた。その帆布をつくる工場が昔は尾道に10軒あって、いま1軒だけ残っている、と。私がテキスタイルを勉強していることを知って、そこに案内してくれたんです。

*尾道の吉和は瀬戸内有数の漁業基地。かつてここには漁業や行商をしながら船上で暮らした人たちがいた。子どもたちは就学せず、幼少時から労働力となり家族の生業を支えていた。




──それが、「立花テキスタイル研究所」がいま間借りしているこの工場(株式会社尾道帆布)なんですね。

そうなんです。で、木織さんが、尾道のお土産は魚や景色といった形に残らないものばかりだから、その帆布でバッグをつくりたいって。

──尾道の新しいお土産として。

うん。じゃあ協力しますということになって「工房尾道帆布」がスタートしました。当時、私はまだ院生だったから、東京から通いでね。私は染工場に注文を出したりする技術と、広報の担当。まずは色で勝負しようということで、染めに力を入れることにしたんです。最初はメンバーで1万円ずつ出し合って帆布を一反買って、ちょっとずつ切って、5色つくって、バッグにして。

──それがいまや、尾道商店街に大きな直営店を構えるまでになったんですね。




アートは誰のためのもの?

──「尾道帆布展」の活動も、同時に始めたんですか?

美大生って、作品を発表しようとすると、なけなしのお金を貯めて、銀座のギャラリーで展示するっていう王道のパターンがあったでしょう。材料費で10万円も20万円も使って、画廊を1週間借りるのに十何万も払って、会期中は交通費をかけて通って。でも結局、見にきてくれる人は同級生くらいだったりして。ただ発表会をやるためにすごくコストをかけているうえに、同じ穴のムジナ同士で感想を言い合っているだけで、こんなの自己満足じゃんって。アートの存在意義とか社会との関わりというものが、私は見つけられなくなっちゃってた。
そういう思いと、初めて尾道を訪れてこの帆布工場を見たときの感動をいろんな人に味わってもらいたいっていう思いがあって。だから「工房尾道帆布」の仕事をボランティアでやる代わりに、「尾道帆布展」をやらせてほしいってお願いしたんです。夏休みの1ヶ月間、美大生を誘致して尾道で制作をしてもらう、暮らしながらものをつくっていく企画展をやりたいってね。



──尾道帆布の宣伝活動でもあった。

市民から集まった寄付金100万円を運営資金に、尾道市の協力ももらいつつ、廃校になった小学校や商店街や島など、会場を毎年変えながら、地域にあるものと帆布を使えばなんでもいいという条件で作品をつくってもらうっていう。

──美大に募集をかけて、学生を集めたの?

東京だけじゃなくて、大阪や金沢や、いろんなところから学生たちが来ました。飛び込みの子もいたなあ。この教室でやりたいとか、あっちの廊下でやりたいとか、みんなで話し合って制作展示場所を調整して。

──2002年というと、アーティスト・イン・レジデンスがまだ浸透してないころだね。

そう。東急ハンズでなんでも材料を揃えられるわけではない環境で、人との交流のなかで制作するということも大事だと思った。アートは特別なものでも崇高なものでもなくて、日々の積み重ねでひとつの作品ができていくっていうこと。私がいまやっていることも同じだけれど、要は、やろうと思ったら誰でもできるのがアートだっていうところにカジュアルダウンしないと、日本のアートへの理解ってたぶん一生縮まらないって思ったから。

──自身も表現者でありながら、もう少し引いた目でも見ていたんですね。




なぜに気になるゴミ問題

──そもそも大学ではなぜテキスタイルを?

子どものときから手芸が好きだったのね。母に編み物やミシンを習ったり、小学生のときは手芸クラブにも入っていて。布に触っている時間が長かったから、自分が表現しようと思ったときにいちばんしっくりきたっていうのかな。

──院まで行ったということは、テキスタイルを突き詰めたいという気持ちがあった?

いや、なかった(笑)。まだまだ遊びたかったし、社会に出たくなかっただけで、ただの時間稼ぎ。じつは尾道と出会う前は、イタリアに留学したいと思っていたんですよ。イタリアが大好きなのは、ゴミがないから。私が行ってた街は、コンビニもないし、紙コップも使わないし、全部量り売りだし。そういう暮らしを知って、レモンひとつにもトレーをつけて売っている日本が嫌になっちゃってた。尾道に来たのはそんなときだったんです。日本に居続けるのならなおのこと、ゴミ問題は解決しないと、自分がイタリアに行かなかった理由が得られない。なんでそんなにゴミに執着があるのかわかんないんだけど(笑)。べつにそうやって育てられたわけじゃないし、自分でも謎なんだよねえ。

──創作活動をしているうちにそういう気持ちが芽生えたのかな。

なんとなく、子どものころからな気がする。おばあちゃんと一緒に住んでいたのもあるし、昔、お菓子の包装紙やリボンなんか、ていねいに畳んでとっておいたじゃない? 新聞に挟まってるスーパーの広告の、お肉やアイスの写真を切り取って、それでおままごとしたり。そういう体験は大きい気がする。
あとね、父の実家が岩手にあって、夏休みはずっと岩手で過ごしていたことも関係あると思う。山も川もあって、いとこたちとめちゃくちゃ野生的な遊びをしてた。いまは禁止されているけどもりで魚を突いたりして、自分の手で食料をとったときのアドレナリンが放出される感じとか、すごく強く残ってる。あるいは、おじいちゃんの畑のキュウリをもいで食べて、ヘタはそのへんにポイッと投げておけば土に還るってこととか。



──自分の責任で始末をつけるということを肌で知っていた。

そういうところはあるかもしれない。だから、どこでつくられたかわからないものや、どうやって捨てたらいいのかわからないものに対して不安があったんだと思う。

──実際、いまのカオリさんの暮らしすべてがそういう思いを反映させたものなんだろうね。たとえば畑の雑草を食べてくれて糞は堆肥になるヤギや、羊毛がとれる羊を飼っているのも、その現れで。


呪縛を解放するバイト

──院を卒業してからは、どうしていたんですか?

東京で、予備校講師のアルバイトをしてました。

──へえ! 当時はボランティアで尾道の活動をしつつ、塾講師のバイトで生計を立てていた?

そう。最初は美術の実技だったんだけど、そのうち論文なんかの講座も担当するようになって。学生に教えるには、その子が何に興味があるかを自分で探らせないといけなくて、どっちかというとそのための授業でした。最近読んでいいなと思った本は何かを訊いたりして、半分カウンセリングみたいなんだけど、まずはその子が興味のあることを突き詰めていって、やる気を導く。そうしないと学習が頭に入らないから。
できない子って、できないって自分で決めてできない子がすごく多くて。本来はできないって決まってはいないんだけど、その呪縛というのが結局、その勉強だけに留まらず、作品制作や人づき合いにも響いてきたりするわけ。ちょっと宗教的なんだけど、解放できるのは自分しかいないから、そこのコントロールがすごく難しい。


──そこまで塾講師に求められるの? 学校の先生みたい。

だからお給料がよかったんだろうね。でも、おもしろかったよ。それで、呪縛とか表現とか言ってると、今度は幼児教育に興味が出てきたわけ。予備校は週3回だから時間もあったし、私が当時住んでいた藤野(神奈川県)のシュタイナー学園の仕事も始めたんです。子どもたちにものづくりを教えたりしていました。

──してみると、教えるっていうことをこれまでけっこうやってきているんですね。

じつは両親とも教員なんですよ。うちの家系は教師、議員、公務員ばかりで、商売人が全然いないの。人様のお金で食べてるから危機感がないというかね。このままだと同じレールだなと思ったから、そこを脱してみたい気持ちもちょっとあって、それで住む場所を変えたのもあるんです。振り返れば、いろんなことが作用しているものですよね。

──それでいよいよ、尾道に移住することになるわけですね。



ものづくりをする意味


東京から尾道に通いながら「工房尾道帆布」と「尾道帆布展」の活動をしてたんだけど、帆布のバッグが順調に売れていって。4年目でNPOにして、店舗をもって。そのタイミングで、こっちに引っ越してくればっていう話になったんです。ちょうど10年前の2008年。
そこで私は次のステップにいきたいなと思ったんです。今度はもう少し自分の個人的なテーマでものづくりをしたいなって。こんなにものに溢れているなかでなお、ものをつくり出す意味をきちんと考えたくなったというか、やみくもになんでもではなく、厳選してものをつくりたくなった。たとえば、自分たちで栽培した綿で染色するとか。最終的には地域で出る天然のものや地域の廃材だけで染めるっていう目標で、5年くらいかけて構想を練りました。

──それで「立花テキスタイル研究所」が誕生した。「立花」は地名なんですね。

そう。向島むかいしまの南にある集落で、研究所を立ち上げた場所です。尾道という名前を使ったほうがいいって言われたんだけど、尾道はすでに全国的に有名だし、それにあやかるよりも、もっとローカルなほうがいいんじゃないかと思って。日本でいちばん長寿の村になったこともあって縁起がいいし、“花”ってつくのもいいなって。“テキスタイル研究所”っていうのはね、昔、東京に東京テキスタイル研究所っていうのがあって。

──土屋由里さんが通っていたところだ。やっぱり武蔵野美術大学工芸科出身。

そうなんだ! 学生時代はよくそこに買い物に行っていたの。染めの材料が一式そろっていて、いいなあ、こんなお店やりたいなって。べつに真似したつもりではないんだけど、“テキスタイル研究所”っていうフレーズが心に残っていて。私たちには聖なる場所だったから。




──オマージュだね。

2年後に独立するまで、最初は「工房尾道帆布」の一事業部としてスタートしました。経済産業省の補助金が下りたので、お金は稼いじゃいけなかった。それで、いまもスタッフとして一緒にやってくれている斎藤(知華)さんも移住してきてくれて、ひたすら研究の日々。染色に使える木を探すために、向島から同心円状に、しまなみ街道から岡山、愛媛まで、どこに何が生えてるのかをフィールドワークして。

──そこからやったの!?

そこからやったのよー! 使えそうな植物が生えている場所の地権者を調べたり、農業委員会に農家さんを紹介してもらったり。で、サンプルをひたすら出していきました。経産省からお金をもらってたから、報告書を出さなきゃいけないこともあって、何をどういう条件で染めたか、染める時間や色合いや、何百種類ものサンプルを総合評価でまとめていって。第三者の評価機関で繊維の品質検査もしてもらうなど、かなり戦略的にやりました。



──うわあ、すごい! すべて自分たちで実験したデータなんですね。

オタクだよね。一緒に住んでたから、家に帰っても、次はどうする、ああでもない、こうでもないってずっと話してて、もう24時間作業。最初の1年間はほんとに働いたなあ。その反動がきちゃって、いまはポヤンとしてるけど(笑)。




ゴミが宝になる?

植物って、ほとんどのものが色を出せるんですよ。だから選びどころがないっていうか、自分たちで落としどころを決めないときりがないんです。そこでコンセプトとして立てたのが、廃材を使うということ。

──廃材。

うん。染色って美しい色を追いかければいくらでも表現できるんですね。そこに伝統工芸の要素がくっついてくると、労力をかけてナンボみたいな世界になってくる。あの山のてっぺんに生えてる、ある時期に採取した何かの根っこ、とかね。
私は産業にしたかったから、そういうことではなくて、自分の営みとはまた別の、企業などから出る廃材を有効利用して染色しようって決めたんです。たとえば農家さんがすでに育てている植物だけど、枝の部分は不要で、お金をかけて捨てている、とかね。そうすると、自分が欲しい色というよりは、その地域から必然的に生まれた色になるわけで、それをいかに認めていけるかという話になる。地域から出たら運搬コストがかからないというのもエコでいいでしょう。で、地元で無理なく手に入る廃材であれば、植物に限らなくてもいいよねっていうことになって。




──なるほど。そのひとつが、造船所で出る鉄粉なんですね。

これがひとつの会社から、月に2~4トンも出るんです。コストをかけて再利用するより、産業廃棄物として処理したほうが早いんだって。

──ひとつの会社だけで1ヶ月に2トンも出るものを、どこに捨てるの?

埋め立てたり、海に流したり……っていう、私たちがいままで知らなかった部分でしょ、社会の。そういうものって、たぶんいっぱいあるよね。それがツボだったっていうか、こんなこと知らないで生きてきちゃってたよ、私!って感じで、なんとかこれを使えないかなと思って。他には家具メーカーの木っ端や、牡蠣の殻なんかも使わせてもらってます。
まあ、私たちが使う量なんて知れているんだけど、知ってもらうきっかけにはなるんじゃないかと思ったの。それに、私たちはたまたま染料に使っているけど、うちだったらこうやって利用するみたいな人がどんどん増えて、みんながもっと産廃を有効できればいいなと思って。
再生紙なんかはずいぶん当たり前になったけど、そんなんじゃまだまだ追いつかない。本当はいろんな会社が、ホームページなんかに、うちではこんな産廃が出ますって表示することを義務づけたりしたらいいんじゃないかな。ある人にとっては買ってでも欲しい価値のあるものかもしれない。ゴミが宝になるかもしれないんだよ。

──誰かにとってはゴミでも、違う誰かにとっては宝になる。




そういうのって、かわいい

──日本独自の染料である柿渋をジャパン・ブラウンと呼んで絶賛していますね。

草木染めのなかでも柿渋って別格なんです。染色の際には熱染といって、植物をグツグツ煮てから、金属を入れて色止めするのが一般的なのね。だけど柿渋は非加熱で、青柿を絞って常温保存しておけばできるの。しかも、紫外線が色止めになるんです。

──金属も火も使わずに染色ができる。

うん。人間のエゴがほとんど入ってないっていうのかな。柿渋はぜひとも使いたい材料だった。尾道は昔、柿渋の一大産地だったので、柿渋の農家さんを探したんだけどもういなくて。
尾道市の北部の御調町みつぎちょうは、かつて干し柿で栄えた集落で、柿農家さんは減ったものの、柿の木自体はたくさんあるのね。私がある柿農家さんに柿渋の話をしたら、つくってみたいって言ってくれたんです。で、つくり方を教えたんだけど、ぱったり連絡がこなかった。諦めちゃったのかなあって思っていたら、2年後のある日、できましたって。ちなみに柿渋液って2年寝かせるんだけどね。その方は早期退職して東京から実家に戻ってきたんだけど、「尾道柿園」っていう会社を立ち上げて、柿渋液のパッケージも自分でデザインして、完成した商品として持ってきてくれたんですよ。




──諦めたどころか本気だったんだ! しかも御調町は限界集落だけど、これをきっかけにいま、再び柿の里として再生しようとしてるという。

あとね、柿渋に並んで、藍もすばらしい素材なの。

──こちらはジャパン・ブルーとしてけっこう認知されている、やっぱり日本独自の染料技術。

藍は自分たちで育てているぶんだけでは足りないので、お願いしてつくってもらっているのとを合わせて、尾道のピザ屋さんから灰をもらってきて染めてるんだ。
もともと自分たちだけですべての材料を調達するのは無理だと思っていたから、他の人といかに連携をとるかっていうところがポイントでしょ。こんな感じで、なんだか欲しいものが集まってきちゃって、これはいいぞって。



──ワタ染めというのは?

商品は基本的にここの工場でつくってる帆布を買って使っているんですけど、自家栽培の綿で帆布をつくりたくて。でも私たちが育てていたのは和綿っていう日本の在来種で毛足が短く、それだけだと帆布はつくれないことがわかったんです。だから毛足の長い洋綿とブレンドして、糸からつくって。
でね、和綿の茎の部分を染料にしているんです。植物繊維というのは基本的に染まりにくいんだけど、綿生地は自分から出たものでつくられてて、要は同じ体の一部だから、相性がよくて。他の染料はあんまり入らないんだけど、自分自身の茎だったら色が入ったという。そういうのって、なんかかわいいよね。

──愛おしいねえ。それも研究のなかで知ったことなの?

そう。たまたま発見したの。染色っていろんな文献があって、この植物からこの色ができるっていうのはたいがいもう知られているんだけど、綿の茎はなかったし、レモンやキウイなど新しく国内に入ってきた植物も多いから、在来種ではない色のデータは少ないんです。

──ある意味、世紀の大発見だね!


地域循環型の産業で、つながりのあるみなで生きる

そういうなかで、立花テキスタイル研究所の商品としての5色が決まっていきました。地味な色ばかりで、なんでもっときれいな色を出さないのって思う人もいるかもしれないけれど、追いかけてるのはそこじゃなくて、産業にしたいので。
まあ、ものをつくるってことに対する自分への言い聞かせだよね。私がつくっているものは産業廃棄物としてゴミになるものに少しでも光を当てているんだっていう理由があるからこそ、私はやめずに続けていけてるんだと思う。結局のところ私はものを生み出さないと生きていけない人間だけど、そこに立っていると排泄物が多すぎるなって感じてて。それがずっと自信のなさにつながっていたのを、この仕事で払拭しようとしているのかもしれない。



──やっぱり武蔵美の卒業生の私の友人が、大きい作品ばかり制作してて。でも展示が終わると結局、全部粗大ゴミになってしまう。それがどうしても許せなくなって、食での表現活動に転向した人がいるのよ。

気持ち、わかるわー。さらにもっと他企業などと連携できれば、すべてのゴミを消化できるんじゃないかって思ってるんだけど。そういうサミットを開いてマッチングっていうのもやったことあるんだ。人と一緒に考えながらつくっていくって、おもしろいじゃない?

──不要になるか宝になるかって、人間関係もある意味、そうかもしれないねえ。「工房尾道帆布」にしても「尾道柿園」にしても、その人にとっての運命的なことが、カオリさんがきっかけになって動き出したんだし。

人間が絡んでいる仕事だからね。やっぱりつながりのあるここの人たちと一緒に生き残りたい、と思うじゃない? 私がいまやってるようなことって、じつはどこででもできるんですよ。私の場合はたまたまここに織工場があったんで無理なくできたという面はあるにしろ、どこにだって植物は生えているわけで、材料はいくらでも見つかると思うから。



新里カオリさんの “仕事の相棒”
尾道
「たまたま染めたり織ったりする仕事をしているけど、生活と直結しすぎて、自分のなかでは全部つながっちゃってるんです。朝起きてから夜寝るまでの、どこからどこまでが仕事で、どこからどこまでがそうじゃないのか、わからない。移住希望者に不動産の斡旋なんかもかなりしてるけど、一銭ももらってないし(笑)。でもここに住まう人たちと、ここに育つ植物と。尾道という土地でしかできないことを、私はやっているんだと思います」



インタビュアー

野村美丘(のむら・みっく)

1974年、東京都出身。東京造形大学卒業。『STUDIO VOICE』『流行通信』の広告営業、デザイン関連会社で書籍の編集を経て、現在はフリーランスのインタビュー、執筆、編集業。文化、意匠、食、旅、犬猫など自分の生活の延長上をフィールドに公私混同で活動中。座右の銘は「ひと文字ひと文字にキレあれ」。この連載の撮影を担当している夫とphotopicnicを運営している。
www.photopicnic.pics


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