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 「働いて生きること」は、人の数だけ、物語がある──。私がこれまでに出会った、他の誰とも似ていない仕事をしている「自分自身が肩書き」な人たちに、どのようにしてそうなったのかを語ってもらい、それが『わたしをひらくしごと』という一冊の本になりました。
 この連載は、件の本に登場してもらった人たちから、さらに「自分自身が肩書き」な人を紹介してもらって会いにいくという進化版。前回までは私の友人知人がインタビュー対象でしたが、今回は、そのまた友人知人、つまり私にとっては初対面の方ばかりです。友だちの友だちは、みな友だちだ。世界にわたしをひらこう、ひろげよう、友だちの輪! さて、どうなることやら。

写真:藤田二朗(photopicnic)

行き倒れ上等で、誰よりも真剣に遊びまくる

原っぱ大学 塚越暁さん(ガクチョー)


イケてる側も、イケてない側もしっかり味わって
社会人になってからは、ばりばりのサラリーマンも経験し
そうしてたどり着いた先にあった、むちゃくちゃに“遊ぶ”ことの爽快さ。
塚越暁さんをひらく、しごとの話。

名前

仕事

ガクチョー

この仕事を始めたきっかけ

小学生のわくわく

つかこし・あきら
1978年、神奈川県出身。受験戦争をゲーム感覚で勝ち抜き、一流大学へ入学するも、サーフィンに明け暮れる。(株)リクルートに入社、雑誌編集や経営企画などを手がけるサラリーマン生活を経て、震災を機に脱サラ。2012年「原っぱ大学」始動。2015年、HARAPPA株式会社設立。権威になりたくないため「ガクチョー」と名乗り、逗子をベースに活動。原っぱ大学は千葉や大阪にも増幅中。
harappa-daigaku.jp


紹介してくれた人

八幡暁さん(ちゅらねしあ)

たとえば、ひとつのことに秀でている人がいるとします。それを右のベクトルに振りきっているとすれば、往々にして左のベクトルは疎かになるもの。塚越さんは、右にも左にもベクトルが伸びている、大きな器のような稀有な存在。子どものような自由な発想と成熟した大人のバランス感覚で社会を揺さぶる、尊敬する人です。









海が近くにないなんて


──いまの活動にいたるまでの変遷を知りたいんです、ええと、最初から。

最初って、どこになるんだろう。

──ここで生まれたということなら、そこからなのかもしれない。

ああ、なるほど。じゃあ思いつくままに話しますね。僕は逗子で生まれ育ちました。運動が苦手な子どもで。

──へえ! いきなり意外。

小学校1年生のとき、まわりに流されて少年野球のチームに入ったんですけど、まあ大嫌いで。飛んでくる球は捕れないわ、バッドには当たらないわ(笑)。毎週末、雨が降って練習が中止になるよう祈ってました。日曜日の朝、雨戸の揺れる音がして、これは雨にちがいない!と思ってガラッと開けると、風が雨戸を鳴らしているだけだったときの落胆はいまだに覚えています。

──光景が思い浮かぶようです。


対して大好きだったのが、野遊び。海に探検に出かけたり、山で秘密基地をつくったり。デカい団地を丸ごと使って缶蹴りとか、他人んちのなかまで使って街全体でドロケーとか(笑)。

──じゃあ、体を動かすこと自体が嫌いだったわけではなく、スポーツや体育が嫌だったんだ。

そう。だから放課後、今日はグラウンドに集合して野球やサッカーやろうぜって話になるとシュンとする。山で遊ぼうぜーみたいなのが、当時の僕のわくわくのすべて。そんな小学校時代の原体験が、いまの活動につながっています。

──というか、そのままですよね!

でも、そんなのはすっかり忘れちゃって。高校でラグビーに出会って、ちょっと変わったんです。それまでは自分でルールをつくる世界が好きだったんだけど、決められたルールのなかでチーム一丸となって勝ちにいく楽しさを知った。同時に勉強もがんがんやるようになりました。勉強するほど偏差値が上がるのがおもしろくて。

──ゲーム感覚で。

そう! だから、それまではマイノリティだったのが、高校時代はスポーツも勉強もできる、イケてるサイドにシフトしたんです。

──高校デビューじゃないですか。

完全にそれ(笑)。そのあと、一橋大学に進学しました。受験もゲーム感覚で偏差値の高い大学にポイッと入ってしまったけれども、そこで何を学びたいわけでもなかったんです。
で、初めて実家を離れて大学の近くでひとり暮らしをするんですけど、海がね……ないわけですよ。ここは俺のいるところじゃない!と。

──海のそばで育った人ってそうみたいですね。海が近くにないと落ち着かない。

離れて初めてそのことに気がついて、あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”!って。そのころちょうど彼女と別れたとか、新歓コンパがうまくいかなかったとか、孤独感みたいなのも相まって。だから大学はデビューしそびれたんです(笑)。そんなとき誘われて、地元でサーフィンをやるようになって。




──逗子に生まれ育ちながら、サーフィンはそのときが初めて。

そうなんです。すごい楽しくて、大学にはほぼ行かなくなっちゃった。実家に寝泊まりするようになり、ほどなく下宿も引き払っちゃって。でもいま思うと、そのときの僕は原点に近づいていたというか。海に行って、遊んで、自分の感じることと考えることが完全に一致してた。
いかに気持ちのいいことをやるかってだけの、どうしようもない大学生でしたけど、でも根は真面目というか、やっぱり就職はしなくちゃみたいな気持ちはあって、3年生で就職活動を始めました。



なんのために働くか


だけど、それまで僕はありがたいことにお金に苦労する局面に立たされたことがなかったので、単純に働くモチベーションが湧かなかったんです。お金のために俺は一旗上げる!って言ってるまわりのやつを羨ましいなと思いながら。

──地方から出てきてる人たちのほうが、そういう気持ちは強いですよね。

まさしく。かといって、プー太郎をやって享楽的に生きるっていうイメージも湧かない。じゃあ働くってなんなんだろうって自分なりにいろいろ考えたとき、究極的には次の世代に受け継いでいくってことが働くことの根本なんだっていう結論にいたった……っぽいんだよね。真理ではあると思うけど、こっ恥ずかしいですね~。

──働き出す前からそこに思いいたるなんてすごいな。私なんて、いまだにそこまで思えてない(笑)。

でも、そんなこと思っちゃうと、就職活動は全然うまくいかないんですよ。





──でしょうね。見てるところが全然違うもの。

で、次世代につなぐなら、取り組むべきは環境だろうと。当時も中途半端な意識高い系のやつがよくそういうことを言ってましたが(笑)、アフリカにダムをつくるとか太陽光発電をつくるといった、地球を守るためのインフラ整備を仕事にしたい、それなら商社だろう、と思ったんです。
それで忘れもしない、商社にOB訪問に行って。こういうことをして地球を救いたいって熱く語ったら、おまえはアホか、と。商社は、商う会社と書きます。商売してナンボなんだから、おまえみたいなやつが商社に来るんじゃない、と言われてしまった。
いまでこそそのとおりだなと思うけど、当時の僕は、うわ、こんな大人はつまんねえ! 商社なんかに行ってたまるか、と思っちゃった。でも、じゃあ年収なんか気にせず、NPOに入ってアフリカに行って環境活動に捧げる、みたいな生き方はイメージできないわけ。

──理想に振りきれない。

そう、保身も捨てきれない。安定した生活ではいたいっていう、そこがまた中途半端で。





自分自身には何もない


そんなときに出会ったのが、リクルートという会社でした。そのときのリクルートのキャッチコピーが「Follow your heart」。ひとりひとりが自分らしい選択をできる社会をつくることによって、よりよい社会をつくっていく、ということですね。インフラなどのマクロに向き合うのでなく、個人の心というミクロに向き合うことによって、よりよい社会にする。これこそ僕のやりたいことじゃないか!と思って。
それでリクルートに拾ってもらったんですけど、金儲けしたい上昇志向の同期が多いなかで、そういうビジョンに共感して入社しちゃった自分には、がつがつ這い上がっていくエネルギーが足りない。最初は当然、営業とかさせられるんですけど、成績は振るわないし、いったい俺はなんのためにここでこんなことをやってるんだと、会社の近くの勝どき橋のたもとにたたずみ、川面を眺めて悶々として。

──さっきからもう、目の前に情景が思い浮かびますねえ(笑)。



そんな新人でしたが、営業は向いてないって会社がすぐ見立ててくれて。で、そのあと雑誌の編集部に配属になったんですよ。これはもう、楽しくてしかたなかった。それこそ個人の心を変えることで世界を変えるっていうのを、地で行かせてもらっていたような。自分をとおったものが世の中に出ていって、読者が喜んでくれる。そういう喜びをストレートに味わわせてもらいました。
2002年に入社して7年くらいは編集をやってたんですが、いつの間にかすっかりいっぱしのサラリーマンになっていて、いかにこの会社で上っていくかを考えて。紙メディアがどんどん下火になっていたこともあって、今度は経営企画や経営管理、組織のなかのマネジメントやプレゼンテーションといった、いわゆるサラリーマン的ないろはを覚えようと。で、一所懸命やって、社長に近いフロアでの仕事をさせてもらうところまで行きました。
そのとき、東日本大震災が起こったんです。40階建てのビルの上階で、あの揺れを感じて。隣のビルとくっついちゃうんじゃないかっていうくらい、ものすごい揺れました。当時、30代前半でしたが、順調に会社の階段を上がってきたそのくらいの齢の人間は、ちょうど1回立ち止まるような時期だと思うんですよ。僕もそういうフェーズだったときに、震災といういろんな価値観が変わるのを体験したのは大きくて。あのタイミングでキャリアチェンジした人は多いと思うんですけど、僕もまさしくそうでした。
自分はなんのためにいまの仕事をやってるんだっけ、組織を維持していくことに自分の人生を注ぐことに意味なんてあるのかなって。サーッと一気に醒めていく自分がいたんだけど、いざ転職なり独立なりしてみようというとき、自分のなかに何もないということに気がついちゃったんですね。リクルートの肩書きを取っ払うと、何もない。その拠り所のなさに、恐れおののいたわけです。

──帰属意識はアイデンティティに大きく関わっていますもんね。



俺の好きなのは、こっち側


そうやって立ちすくんでいたときに、たまたまFacebookのタイムラインに流れてきたのが、当時「greenz(グリーンズ)」がやっていたスクールの「マイプロジェクト」の情報でした。
自分が心の底からわくわくすることや大切に思うことを、自分の本業とは別に、小さくてもいいから立ち上げる。そんないろんなマイプロジェクトが世の中にできていったら、世界はいい方向に向かうんじゃないか、というテーマを掲げたカリキュラムで。それまでは、自分の人生を賭けるイコール、金を儲けなくちゃいけないと思ってた。でも、そうじゃなくていいっていうので、ちょっと気が楽になったんですよね。


それで、そのスクールに通うことにしたんです。自分をとことん掘り下げて、自分のなかにある譲れないことを明確にして、それを価値に変えていくという作業に取り組みました。
それをやっていくと、小学生のときの遊びの記憶が立ち上ってきた。自分の根っこにある大事なものが、だんだんはっきりしてきたんです。高校生以降の、自分をくるむようになっていった殻がまだないころの。

──社会性を身につける前の、本来の自分。

そうそう。もうひとつは、僕、リクルートでばりばりやってたころは家族と都内に暮らしてたんですね。そのときは、息子と過ごす時間がほんとに苦痛で。

──苦痛、ですか。

平日はアホみたいに働いてたから、休日は家でゆっくりしていたいのに、ちょっと子どもと公園に行ってきて、なんて言われて。


──ああ、そういうことか。家族サービス。

そう。で、公園に連れていくと、ヤツはずーっと、何百回も、滑り台を滑り続ける(笑)。

──こっちからしたら、何が楽しいんだよってね。

うん。しかも僕、子どもが生まれたのが早かったんで、まだ自分のことを優先したい若造で。いまでこそ息子にごめんって気持ちですけど。
で、ちょうどそのころ、奥さんを説得して逗子に戻ったんですよ。出社前にサーフィンをやりたいという不純な動機で(笑)。ところが逗子はもともと僕のフィールドなんで、海で焚き火するとか、山で秘密基地をつくるとか、子どもをきっかけに自分の遊びを取り戻すプロセスができたわけです。そうしたら、子どもとの時間がどんどん楽しくなっていった。東京では嫌だったはずの子育てが、ここではすごく楽しい。というのも、じつは子育てなんてしてなくて、自分が楽しんでるだけなんですよね。子どもをダシに自分が楽しむと、こんなに楽しいんだ!って。そういうことをマイプロジェクトの課程で言語化していきました。


そのときにすごく象徴的な体験があってね。子どもと一緒に岩場で素潜りしたんです。サーフィンをやっていたから海の上のことはよく知っていたんだけど、潜ったことはあんまりなかった。で、子どもと一緒に泳いでたら、キビナゴの群がワーッと僕らを囲んで、そこに太陽の光がサーッと射して、星がまたたくみたいにキラキラキラ!って。

──さっきからもう、説明がうまいんだなあ(笑)。

すげー! 俺がずっと遊んでた海の下にはこんな世界が広がってたんだ!って。子どもをとおして、自分の土地をさらに知っていく。そうこうしてるうちに、やべえ、これはもう会社のデスクに座ってる場合じゃねえな、俺の好きなのはこっち側なんだっていうのがはっきりしたわけです。
で、そうやって考えていくと、じつは東京の親子、つまり都内に住んでたころの僕のような人たちって、こういう体験がしたくてもできてないんじゃないか、親と子が遊ぶ機会がなかなかつくれていないんじゃないかって気がついて。それでマイプロジェクトで企画したのが、「子ども原っぱ大学」なんです。

──いまの「原っぱ大学」の前身ですね。



自分がいなかったら、なかったもの

都内にいたころの僕は「子どものために」という義務感で子どもと過ごしてたから、自分も楽しくないし、子どもにもその気分が伝わっていた。でも大人自身が楽しんで、そこに子どもがいるっていうくらいだと結果、大人も子どもも楽しい。そういう場を提供したら、喜んでくれる人がいるんじゃないかなと思って。
で、ルンルンでイベントを企画して、日にちも決めて、いざ告知するという段になって、はたと困ってしまって。というのも、サイトもつくり、Facebookページもつくったけど、当時のページのいいね!は、僕と仲間ふたりの合計3(笑)。ここに投稿しても誰も見ねえよ、どうすんだよ、と。平日の僕はバリッとキメて、いわゆるエリートサラリーマン的なペルソナ。それと原っぱ大学っていうのが、自分のなかでリンクしなくて。要は、サラリーマンである僕しか知らない人たちに、秘密基地が好きな自分を開示することに超どきどきしたわけです。

──ああ、なるほど。

自分の大事な心の奥底のものが、受け入れられなかったり、批判されたりしたら、立ち直れないから。でも、エーイッてタイムラインに投稿したら、会社の同僚や先輩、後輩が、おもしろいこと始めたねっていっぱいシェアしてくれて、すぐ定員が集まって。
僕が存在しなかったら存在しない自分の看板で、人が集まってくれて、喜んでくれた。イベント自体はちょっと赤字だったんですけども、手応えはあったし、ものすごい喜びだったんです。そうやって実績が積み上がってきて、自分のキャラクターが立ち上がってきて。うわあ、こういう世界が存在するんだ、会社に寄りかかっていないと生きていられないと思っていたのは妄想だったんだ、と。
そのうち、会社にいる時間もこっちのことを考えるようになってしまって、これはもういよいよ会社員ではいられない、と。それで、2013年に退職しました。



子育ては投資と収益で成立するか

原っぱ大学で食っていくって決めたのはいいけど、まだビジネスモデルも確立していなくて、これでどうやって食っていくんだろうっていうのはよくわかっていないまま。そんなときに、学童事業の新規立ち上げを手伝ってみないかと声をかけてもらって。地域の人たちを巻き込んで学校のなかで学童をやって、子どもたちが放課後、安心できる場所で自分の時間を過ごせるというプロジェクトなんですけど。きっと学ぶことがあるし、もしかしたらここに自分の居場所があるかもしれないと思って、ジョインしたんです。そしたら……うわあ、そういえば俺、学校嫌いだったわって(笑)。



──そもそも(笑)。

それと、あるとき、講師を呼んでものづくりをするワークショップをやったんですね。だけどある子が、完成までいたらずに時間切れになっちゃったんです。僕からすれば完成しないってことも含めてひとつの体験だから、いい時間だったね、もうおしまいだから帰りなよって言ったら、その子が「お金払ってるのに、こんなもんしか持ち帰れねえのかよ」って。

──!

おお、すげえこと言うな、と。でもそれは嫌味とか恨みがましく文句言うっていうんじゃなくて、なんていうのかな、すごい自然な一言で。

──よけい良くないじゃん。

また別の、トンカチを使うワークショップをやったときには、1年生の女の子が僕のところにトコトコっと来て「このトンカチで私たちがケガしたら、おじさんの責任だよね?」って。

──!!

そのふたつのエピソードが、僕が得たすごく大きなことで。どんなにすてきなことを子どもにやろうとしても、結局見えてくるのは、その後ろにいる親の価値観だったわけです。

──うんうん。

親がアウトソースしすぎることで、親の価値観が子どもをとおして立ち現れてくる。要は、投資とリターンみたいな感覚で、この時間とこのお金でもってこの子が過ごしたことで、何か成果を得るべきだ、というのが子育てにおいて日常的になってるんだな、と。
その部分にアプローチしないかぎりは無駄だなと思ったんです。つまり、子どものためではなく、自分自身のために遊ぶ。そのことで、子どもと時間を過ごす。リターンを得るということではない親子の関係をつくる。そういうことを僕はやりたいんだ、語りかけたいのは子どもではなく大人なんだっていうことに、その学童の経験で認識できたんです。



──最近はなんにしても子ども優先っていう風潮ですよね。大人の世界に子どもを入れてやってるんだという育て方をされ、親の都合に合わせるのが子どもの基本姿勢だと思ってきた私にとっては、けっこう違和感があるんですが。

まさしくそういうことだと思う。そしてまた、子どものために何かを得ようとするとどうしても硬くなっちゃうと思うんだけど、そうじゃなくていいんだって思えると、大人は解放されるんですよ。だから、僕らはとにかく遊びきる。遊ぶことが結果としてその子を強くすると思うし、そうならないかもしれないんだけど、べつにそれでも構わない。投資したぶん、これだけのリターンを得られるって、子育てって、そういうことじゃないですよね。目的性から脱却しないと。


野垂れ死にもまたよし


──原っぱ大学は地域活動の類とは一線を画して、ビジネスと言いきっているところがなんだか気持ちがいいです。


全然儲かってないですけどね。一緒にやっているパートナーもリクルート出身で、さっき話したような拡大志向が嫌になって辞めた経緯があるから、自分たちのなかに、じつはアレルギーがあって。ビジネスって言っているわりにはすごいブレーキをかけちゃってたんですね。でもいま、メンバーが増えてきたこともあって、このままでは立ち行かなくなってきたってことがわかって、シフトチェンジをしているところ。もっとちゃんと稼いでいくっていうことに覚悟をようやく決められたんです。
2012年に「子ども原っぱ大学」を立ち上げたときは、スポットのイベント形式だったんですね。でも、イベントって第一にまず儲からないということと、参加者との接点もスポットなので、なんというか、ひとつの映画を観てきたみたいなことと似ていて。その瞬間は盛り上がるんだけど、結局、具体的なインパクトも何も残せないというか。
だから、事業がまわりやすく、かつ参加者との、また参加者の親子同士の厚い関係性が築けるかたちはなんだろうって模索して。それで定期的に通ってもらう会員制プログラムにしたんです。1日だけでは何も変わらないかもしれないけど、何ヶ月か経つうちに、変化が期待できるはずだから。


拠点を千葉や大阪にもつくっているのも、事業をまわしていくエンジンという側面がある。さらにいえば、「HARAPPA株式会社」として2015年に登記してるんですけども、アルファベット表記にしたのは、大人も子どもも無目的に遊ぶっていうこの「原っぱ」という概念は、きっと海外に輸出できるだろうと思って。

──おお、うんうん。

僕のなかに植えつけられたリクルートの拡大志向みたいのは、やっぱり消えずにあったということなのかも(笑)。そこを否定しようとしていたころもあったけど、もういいじゃん、拡大したかったらすれば、と思えるようになってきたんですね。



──脱皮した。

その結果、野垂れ死にしたら、それはそれでいいじゃん、と。

──自分が本気で遊んでいるのを、子どもに見せられるだけでいいんだから。

ほんと、そこに尽きると思って。全力で楽しんで生きている姿を見せるだけで十分。僕はほんとに中途半端なんですよ。はちべえ(八幡暁さん)みたいに魚を生け捕りできるわけでもなければ、ロープの結び方だって知らない。でも、遊びは素人であることが大事だと思ってるんで、それでいい。その代わり、まわりにはおもしろい大人がたくさんいて、僕はそれを子どもに渡せているんだから、すげえ“親”じゃんって。それが、僕がこの生き方を選んだことで、子どもに渡すことのできたいちばん大きなものだなと思います。


塚越暁さんの “仕事の相棒”
遊び心
「つねに遊びがあるか、そういう心を育み続けられるかどうか。それが僕の仕事の根源で、なくなった時点で終わっちゃうんだと思います。だから、遊びまくらなきゃいけないし、いま何に興味があって、何に楽しめるかっていうことに、いつでもアンテナが立ってないといけない。そのためにも、ちゃんと遊ぶ。ちゃんと遊ぶって変な言い方なんですけども、それはすごく大事にしています」

野村美丘さんの本

『わたしをひらくしごと』

全国の書店にて好評発売中

<<連載もくじ


インタビュアー

野村美丘(のむら・みっく)

1974年、東京都出身。東京造形大学卒業。『STUDIO VOICE』『流行通信』の広告営業、デザイン関連会社で書籍の編集を経て、現在はフリーランスのインタビュー、執筆、編集業。文化、意匠、食、旅、犬猫など自分の生活の延長上をフィールドに公私混同で活動中。座右の銘は「ひと文字ひと文字にキレあれ」。この連載の撮影を担当している夫とphotopicnicを運営している。
www.photopicnic.pics


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