アノニマ・スタジオWeb連載TOP > ケンカのあとは、一杯のお茶。 もくじ > その9 「『くらし』の秘訣はごまかさない。チームのスイッチは常にオン!なけんか」


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その9

「くらし」の秘訣はごまかさない。
チームのスイッチは常にオン!なけんか




東京・神宮前にあるHOEKは「くらし」にまつわる様々なものを扱うセレクトショップです。ひとことに「くらし」といっても、さまざまな「くらし」があって、世の中にはくらしの数だけ、ほんとうにさまざまなものが溢れかえっているわけです。HOEKで取り扱われている「もの」たちを見て、感じること。凛とした、背筋が伸びるようなものたちでありつつも、親みも感じられるような、手を伸ばせば届きそうな等身大の素敵さというような…そんな「もの」たちのセレクト。そこにはオーナーである大井智史さん、美代さんご夫婦が「くらし」の中で大切にしているものが現れているのだなと感じます。HOEKに出会ったのは、わたしが家族と共に作っている雑誌、「家族と一年誌 家族」をお店で取り扱いたいと連絡をいただいたことがきっかけでした。初めて智史さんにお会いした時、お店の魅力とともに、智史さんご自身の家族や「くらし」への想いを感じて、いつかお話を聞いてみたいなあと思っていました。夫婦でお店を営みながら、3人の小さな姉妹の子育て真っ只中でもある大井ご夫妻。今回の取材で初めてお会いできることになった美代さんは、子育て7割お店3割の力配分で関わっていると聞き、大いにけんかの予感もします(夫婦の間に「子供」が誕生した途端、バランスを保つの難しくなるよなあ…しかも3人!)。取材に向けてやりとりしている間に美代さんから「実は先日盛大にやりあいました」なんてメッセージもいただき、期待大。いろんな雑誌で取り上げられている国立の素敵なご自宅に話を聞きに行きました。


夫 大井智史さん
2015年にHOEKをオープン。ユナイテッドアローズに勤務した後、halutaでは商品のバイイングや店舗の立ち上げなどを担当。La kaguのキュレーションなども行った後、独立した。おだやかに見えて、思いついたことは実行する決断力と行動力の持ち主。


妻 大井美代さん 
ユナイテッドアローズ、アパレルブランドのデザインなども経て、2015年智史さんと共にHOEKを立ち上げる。HOEKの「もの」選びの女性的な部分を担っている。3児の母。何事もはっきりきっぱり。思ったことは相手に伝え、ものごとは突き詰めて考えるタイプ。





お互いの存在が転機となり全てをリセット

お二人が出会ったのは智史さんが23歳、美代さんが25歳の頃だったそう。短大を卒業後、文化服装学院でファッションについて学んだ美代さんが「ここだ」と思って入社したユナイテッドアローズ。そこで大学時代からアルバイト含め、すでに3年ほど勤めていた智史さんと出会い、一緒に働くことになったのです。

智史さん
「同じ店舗で働くようになって、VP(ウィンドウディスプレイなどお店のビジュアル・プレゼンテーションを作る係)の担当も一緒だったから、2人残って作業する時間も長くて。自然といろんなことを話すようになった」

美代さん
「20代前半は毎日楽しければいいとぼんやり生きていて、就職活動をスタートしても将来のことも定まらなければ自分のことも理解していない状態で、当然面接に落ち続けていました。そんな時に『ライフスタイル』というコンセプトを打ち出していたユナイテッドアローズを見て、やりたいのはこういうことだ、と思ったんです。今は『ライフスタイル』を謳うお店はたくさんあるけど、当時は新鮮だった。わたしは服だけじゃなくて衣食住、『くらし』を豊かにすることがしたいんだ、って思って」

智史さん
「でも一緒にお店で働いたのはあまり長くない。目の前のお客さんにいい提案をしたい、それが会社のためにもなる、とやりがいを持って働いていたけど、彼女が入ってきた後くらいから、『このままでいいのかな?この先どうしていきたいんだろう?』って自分と向き合うタイミングが来たんです。当時お互い恋人がいて、僕は高校生の時から8年くらい付き合っていた人と一緒に暮らしていた。それだけ一緒にいたら、当然結婚も考えるけど、仕事もプライベートも本当にこのままでいいのかって悩んで、美代に相談したり。彼女は出会った時から、すごく真っ直ぐというか、いい意味で『ごまかしが効かない』と感じる人だったんですよね」




美代さん
「思ったことは伝えるタイプなので。仕事や恋人の相談を受けたら思ったことを率直に伝えていたよね」

智史さん
「それまで人に弱みを見せることができなかったんだけど自然に弱さを見せてもいいんだ、と思えるようにもなって」

当時から智史さんも美代さんも「自分のお店を持ちたい」という気持ちがあったそう。

智史さん
「自分は今までいろんなことをごまかしてきたのかも、と気づいて。出会って一年後くらいかな。仕事を辞めて、恋人とも別れて、全部リセットすることにしたんです」

美代さん
「わたしも少し遅れて会社を辞めることに。社会で働く上での常識を教えてもらった場所だし、得たものもすごく多かった。ただ『くらし』を大事にする、というコンセプトに共感して入ったのに、忙しすぎて自分のくらしは大切にできていない。未来に望むことを考えた時、人生は一度きりだから、他の誰かに決められるものじゃない。やりたいことがあるならば、それを形にするために、次のステップへ進むべきだと思ったんです。このタイミングでそう確信できたのは、感覚に共感できて、共に歩める人に出会ったと自負していたのもあったのだと思います」




根拠ない自信にガソリンを注ぐ

お互いの存在が転機となり、仕事を辞め、それぞれ付き合っていた恋人とも別れ、付き合うことになったお二人。

智史さん
「リセット前後は、謎のイケイケ無敵モードに入っていて。自分の店をやりたいって思っていたからか、初めて行ったラーメン屋でおじちゃんの話を聞いて『自分がつぎます』って失礼千万なこと言ってみたり、夜中に愛読していた雑誌の編集部に突然電話して『編集長と話させてください』って言ってみたり。恐れを知らず、でも全然方向が定まっていなくて今思えば本当に謎の行動をとっていた…(笑)」

美代さん
「完全におかしかったよね…。最初プライベートをださない人だと思っていたら、突然弾けてイケイケのズケズケに豹変して。でも、そんな人を巻き込んでいく勢いに惹かれた当時…(笑)でも付き合い始めると徐々に自分を取り戻していったのか、半年ほどでその無敵モードは終わって本来の落ち着いた人に戻って、あれ?こんなおじいちゃんみたいな人だったっけ?って(笑)」




無敵モードは終わっても、変わらずお二人が共に持っていたのは、根拠のない自信だったといいます。

智史さん
「しばらくお互い派遣会社で働きながら、いつか二人でお店ができたら、と話していた。個性がちがうから『こことここ合わせたら最強じゃん!』とか盛り上がって。お店を持つことに向けた具体的な道筋は見えてなくて、お金もなくて、でも全然不安もなかった」

美代さん
「根拠ない自信に溢れた発言に『できるできる!』とわたしも返して、ガソリン注ぐというかね」




長野への移住

付き合って2年ほど、智史さんが26歳、美代さんが28歳の時に結婚。そのタイミングで二人は長野に移住を決断します。

智史さん
「2人でお店のプランを構想していくうちに、広大な土地で『衣食住』を提案するお店を作りたい、という想いが生まれました。でもそれは東京では考えにくい。そう思っていた時に長野の佐久にある祖母の家が空いていることを思い出した。築120年で、蔵もあって、敷地がすごい広かったんです」

美代さん
「幼少期から両親の都合で引っ越しが多く、場所の変化には抵抗がない。長野は東京へのアクセスもいいし、これはチャンスじゃん!って。結婚して、2人で失業保険もらって、その間に長野でほったらかしだった家をお店に向けてゆっくり整えていこう、と思っていたんだよね。忙しかった日々を一旦終えて、自分たちの『くらし』に向き合おうと思っていた」




智史さん
「なんだけど、想定外にも僕はすぐ働くことになってしまって(笑)」

移住してすぐに、長野県上田に拠点を持ち、北欧のヴィンテージ家具や雑貨を扱っているhalutaの求人が出ていることを知った智史さん。

智史さん
「halutaのことはもともと気になっていたし、なかなか求人が出ない会社だということもわかっていたから、これは…!と思って。自分で店を持ちたいことを伝えて、2年で独立という話をして入ったんです。少数先鋭で立場や段階関係なく、いろいろなことを任せてもらえる会社。バイイングや店作り、自分で店を持つために必要なさまざまな経験ができた。でも『くらし』に向き合おう、と思っていたのに結局仕事が充実しすぎて、自然を求めて行ったのに山とか登る時間も全然なかったんだよね」




美代さん
「なので、わたしが一人で黙々と家と蔵の片付けをするというはめに…。冬の長野は極寒もいいところ。その上、汚れるからダウンの上にカッケを着て、完全に修行でした。ネズミのフンにまみれながら蔵から出てきた漆の碗を凍りそうに冷たい外の水道で洗って。『これは売れる…!!』とか独り言を言いながら。超怪しい人でした(笑)」

移住後1ヶ月で大きな出来事が起こります。東日本大震災です。

智史さん
「ぼくの実家は福島の、長らく立ち入り禁止になっていた場所にあるんです。震災後、母が犬を連れて長野に避難してきて、半年ほど一緒に暮らしていました」





美代さん
「わたしはとにかく『腹を割って、思ってること全部話そうよ』というタイプなんです。夫婦がばちばちっとくるのは些細なことなんだけど、その些細なことでも、とことん突き詰めて話したい。特に、まだ若かったからエネルギーがあって、相手が『もういいよ』とシャットダウンすると逆にもっと火がついていましたね。納得いかないまま終わらせてもまた同じことが繰り返される。白黒つけるまでディスカッションしてほしいわけです。でもお義母さんと同居している時は気も使うし、けんかができなかったんですよ。けんかできないことで、あの半年は逆にすごい溜まっていく感じがありました」





ぐぐっとHOEKを立ち上げた


けんかできないことがストレスだった、という半年間も含んだ長野の日々の中で待望の子どもにも恵まれます。そんな中、仕事も子育ても、ずっと長野で、と思っていた夫妻にまたも転機が訪れます。

智史さん
「halutaが新店舗を東京につくることになって、その立ち上げを任されることになったんです。つまり東京に転勤。思っていたのと全然ちがう流れだったんですけど、僕も美代も新しい流れが来ることはむしろ好きなタイプ」

美代さん
「これはきっと東京に行けってことなんだなって、当時1歳の娘も一緒に家族みんなで東京に戻ることにしたんです。古民家DIYのお店作りは、そんなに甘いもんじゃないなっていうのもわかったしね(笑)」




智史さん
「東京に戻ってからも、halutaの新店舗を立ち上げたり、他社のお店にキュレーターとして参加したり、様々な人との出会いもあって、忙しくも充実していた部分もあったんですけど、過去に東京でお店をやろうとして、その後長野に移ってまた東京に戻って…。この流れは東京で自分のお店をやれってことなんじゃないかと思い始めました。それでhalutaを辞めて、半年後にはぐぐっとHOEKを立ち上げました」

想定外の流れにのって、一気に長年の夢だった「2人のお店」を持ったご夫妻。智史さんにお店を立ち上げたい、と相談された時の美代さんの反応は肝が座ったものでした。

智史さん
「東京で店をやろうと思うんだけど、と言うと美代は一言『ついにこの時がきたね』と。思えば、結婚を決めた時から美代のそういう強い部分にはっとさせられて。何かを形にしたいと思う時、いや…もうちょっと自分がちゃんとしてからじゃないと無理かな、みたいな意識を持ちがちだと思うんです。でも結婚の時は『もうちょっとちゃんとしてからって、どんな状態になったらちゃんとしたって言えるの?一緒に協力し合って成していけばいいじゃないの?』って言われて。そう言われて自分は向き合うのを先延ばしにしてるだけなのかもって思ったんです。そういう部分はずっと変わらないよね」




自分が幸せじゃないと人にまで思いがまわらない

2015年に表参道のマンションの一室を借りてオープンしたHOEK。ずっと描いていたお店の形とはちがう部分も多かったからこそ、「今、この場所」で「今、できること」を大事に、一歩一歩進んでいく、変わっていく、と決めてお店をスタートしたそう。その後、2019年には神宮前、千駄ヶ谷小学校近くに移転。今年、はじめて2人以外のスタッフも増えたそうです。

智史さん
「お店を持った時は開放感がすごくて。やっとできたな、という気持ちがあった反面、2人共100%の力、100+100の200%以上を向ける想像していたけど、子供も増えてそうはいかなかった部分もあった。今は仕事を主に仕切る人、家庭を主に仕切る人、家族というチームの中で力を合わせてやっているところ。やりたいことを実現するのに手がたりない部分も多かったけど、スタッフが入って、2人でやっているのとはまたちがう良さもあって」

美代さん
「お店のこともやりたいけど、子供達に向き合う時間も大切にしたい。だから今は30%がお店で70%が家庭。お互い分担してそれぞれにも頑張っている時だからこそ、コミュニケーションをとらなくちゃいけないのに、どこか相手は自分の状況をわかってくれているだろうと思ってコミュニケーションのスイッチを切っちゃう時があって、それでけんかになるんだよね」




2人のけんかはコミュニケーションの遮断が原因だという美代さん。

智史さん
「けんかになるのは、大抵自分が体調悪い時か腹減ってる時なんですよ(笑)。状況を伝えないまま勝手に『わかってくれるだろう』ってなるのは駄目だってわかってるんですけど、体調悪い時と腹減ってる時は『わかってくれよ』になっちゃって、遮断しちゃってるらしいんです」

美代さん
「その遮断で、この前も子供の送り迎えの話きっかけに大げんかになったよね。『わかってくれるだろう』っていうのは信頼という名の甘えだと思うんですよ。大変だからこそ、家族だからこそ、スイッチをいれないとチームはやっていけない。相手を思いやるスイッチ」




智史さん
「相手を思いやる努力、コミュニケーションをとろうとする努力が大切だけど、そうできる自分の心身状態を保つことも大事だよな、と最近改めて思って。美味しいものを食べること、ちゃんと睡眠をとることって、本当大切というか」

美代さん
「自分が幸せじゃないと人にまで思いがまわらない。だからこそ日々の『くらし』を大切にしたいってずっと思っているし、そんな『くらし』の提案がいろんな人の手助けにもなったらな、とお店もしているよね。長野に行った時は『完成』を描いていたけど、そこから『今』を一歩一歩重ねていくことを大事にしていけばいいんだって思うようにもなりました。だから仕事も家庭も今やりたいと思うことを大事にして、実現したい。でも、そんな一歩一歩を重ねるためにも、一番近い人に対してのスイッチは切っちゃだめってことだよね! それは今を幸せにする努力ってことだから」

智史さん
「はい。そうしたいと思っています…(笑)現実はそう簡単じゃないけども(笑)」







取材後記

すごく真っ直ぐというか、いい意味で『ごまかしが効かない』人。美代さんのことを智史さんはそう言いました。夫婦の話を話を聞けば聞くほど、その言葉通りの美代さんの姿に感服する気持ちになったわたしです。「自分自信が幸せになりたいと思った」「今を幸せにしたい」今までのこと、そしてこれからのことを話す中で、何度も美代さんははっきりとそうおっしゃっていました。幸せでいたい。そりゃ、誰だってそう思っているはずだけど、自分の幸せってなんなのか、自分は今幸せなのか?突き詰めていく、求めていくことって、実はとっても難しいことだと思うのです。「仕方ないから今は我慢しよう」「とりあえずまだ大丈夫」そうやって自分の気持ちを濁したままなんとなく過ごした方が楽な瞬間ってたくさんある気がします。それに加えて、「自分を大切にしたい」っていうより「誰かのために」「何かのために」っていう自己犠牲の精神がどこか讃えられるような社会のあり方を、わたしたちみんなどこかで気にしているような気もします(わたしより大変な人はいる…とか言い聞かせて我慢したり)。ですがですが、美代さんはズバっといいます。「自分が幸せじゃないと人にまで思いがまわらない」…本当にその通りだと思いました!
日々の『くらし』の大切さを提案する、HOEKを営む智史さんと美代さん。ですが、仕事とくらしのバランスは本当に難しい。転機のたびに、智史さんはある時は想定外に、またある時は想定通りに、仕事に明け暮れ邁進しています。ふと気を抜けば(?)「くらし」を提案するはずの智史さんの人生は仕事一色に…なりかねない…のかもしれない瞬間でも、美代さんとけんかしたり、一緒にごはんを食べたり、そんな時間があり続けてきたこと。現実は思うようにはいかないけれど、といいながらも智史さんが自分のくらしに向き合い続けていること、それがHOEKというお店の「くらし」のリアリティのひとつに、確かになっているのではないかな、と思います。仕事とくらしのバランスの、正しいかたちも方法も誰にもわからない。だからこそ、「自分は今幸せなのか?」と問いながら、「幸せになる努力」をする、のだね!!と夫婦のけんかの話を通して、仕事とは、くらしとは、はたまた生きるとは…!!なんてことにまで思いを及ばせてくれた大井ご夫妻に心から感謝です。





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中村暁野(なかむら・あきの)

一つの家族を一年間にわたって取材し一冊まるごと一家族をとりあげるというコンセプトの雑誌、家族と一年誌『家族』の編集長。1984年11月ドイツ生まれ。夫とのすれ違いと不仲の解決策を考えるうちに『家族』の創刊に至り、取材・制作も自身の家族と行っている。10歳の娘と3歳の息子の母。ここ最近の夫婦けんかはコロナ以降際立つ「夫のピュアさ」が主題。夫はギャラリーディレクターを経て独立し、現在StudioHYOTAとして活動する空間デザイナーの中村俵太。家族との暮らしの様子を家族カレンダーhttp://kazoku-magazine.comにて毎日更新中。



馬場わかな(ばば・わかな)

フォトグラファー。1974年3月東京生まれ。好きな被写体は人物と料理で、その名も『人と料理』という17組の人々と彼らの日常でよく作る料理を撮り、文章を綴った著書がある。夫と5歳の息子と暮らす。そんなにケンカはしないが、たまに爆発。終わればケロリ。
著書に『人と料理』(アノニマ・スタジオ)、『Travel pictures』(PIE BOOKS)、『まよいながら ゆれながら』(文・中川ちえ/ミルブックス)、『祝福』(ORGANIC BASE)がある。




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