大学生の頃は、高校生のときからハマっていたスキーの道具が揃うお店が軒を連ねていたこともあって、シーズン前には仲間と連れ立ってニューモデルをチェックしに行ったりもしていた。卒業後も、会社が御茶ノ水にあったのをいいことに、昼休みにお昼ごはんを食べがてらスキー道具をチェックする、という学生時代と変わらぬ何年かを繰り返し続けていた。そのとき必ず立ち寄っていた書店が、靖国通り沿いにある「悠久堂書店」。今となっては、なぜここに足を踏み入れようと思ったのかは覚えていないが、料理書が充実していることが繰り返し通う理由となった。昔から料理をするのはもちろん、料理書を読みながら、作っていることを想像するのも好きだったからだ。
大正4年創業。今年で102年を迎える書店の名は、新潟の長岡出身の初代が悠久山という山の名からとったものだ。神保町に寺子屋のようなものがあったことから、一代目は教科書や学術書などを扱っていたのだそう。二代目は山の本を、現在、切り盛りをしている三代目は料理書を専門にしている。若旦那となる四代目は美術展の図録を専門にしていた。そういえば、今回取材させていただくにあたり、大きなウィンドーが印象的な店構えを改めて眺めていたら、店名を記した通り沿いにある看板の書店名の脇に、山岳、動植物、美術、料理書との言葉が添えられていた。20年以上通わせていただいているが、初めて見た。そしてそれがそれぞれの代で専門にされていたものだと知った。料理書が専門という三代目のお眼鏡に叶った本が収まっている棚が並ぶ私の好きな筋は、通りからお店に向かって左側に位置する入り口からすぐ右側に入ったところ。ワインやチーズに関する専門書や西洋料理に関するエッセイが数多く並んでいる。今でもときどき読み返したり、買い足すこともある辻調グループの創設者であり、フランス料理研究家でもある辻 静雄さんの食エッセイは、20代のとき、ここで初めて手にしたものだった。まだ見ぬ異国の華やかな料理にワクワクしたのも、ここで手にしたTIME LIFE BOOKSの「世界の料理」から。もちろん、日本料理や中華料理の類も並んで入るが、目に入ってくるほとんどは西洋もののように感じた。見た目も話し方も紳士で素敵な三代目のご主人は、いかにも料理をしそうだし、ワインやチーズにも詳しそうな雰囲気が漂っていた。それで三代目に、西洋料理の本が多いのは、ご自身がワインやチーズがお好きだったりするんですか?と訊いてみると、
「料理はしないけれど、本を見るのは楽しいよね。ワインは好きで以前はよく飲んでいたけれど、最近は中国茶が好きでね。それに関するものを読むのもおもしろいんですよ」とのお返事。続けて「最近は岩茶にハマっていてね」と言って、本棚から左能典代さんの『中国名茶館』を取り出して見せてくれた。岩茶は岩茶でも三代目がお好きなのは“大紅袍”と呼ばれるお茶で、武夷四大名茶の筆頭に位置するものらしい。
三代目の優しい声が音楽を奏でるようにふわふわと宙を舞う、背の高い本棚と本棚の間で、少しだけ顔を上げながら、三代目の指差す先の本を目で追った。細い棚の間の通路は、端から端まで普通に歩くと20歩ほどだろうか。両脇にぎっしり並ぶ料理書は、背表紙に記されたタイトルをなぞっていくだけでも一日中飽きることがないものばかりが並んでいた。
ほっと胸をなでおろし、今度は四代目が担当する美術書と展覧会の図録が並ぶ隣りの筋へとまわった。20年以上通っているが、実はこの筋に足を踏み入れたのは初めてのことだった。お気に入りは自分で探すのが私の基本。食べ物も、レストランも、旅に出るときも自分の足で探し、味わったものを大切にしてきた。だから、誰かの本を読んで行ってみたこともなかったし、オススメのレストランの話も聞いているようで聞いていないと友人たちに叱られるくらい。申し訳ないのだが自分で選んだもの以外、興味がなかった。けれどもここ数年、レストランや食べ物に関しては相変わらずだけれど、年のせいもあるのか、本やコスメなど、物に対しては人のオススメを試してみるおもしろさを知った。きっかけは、高山なおみさんと『ダ・ヴィンチ』という本の雑誌で、本とそれにまつわる「はなべろ読書記」という本の話と料理の連載をしていたことからだった。毎回、高山さんが出してくる本を読んでからでないと、次の撮影には臨めない。内容を理解していないと作る料理も背景もわからないから、仕事にならなかったのだ。最初は、仕事の資料として読んでいたが、いつしかそれを課題図書を手渡されるように、待っている自分がいることに気づいた。自分では選ぶことのない本への誘いは、ページをめくるたびに知らない自分に出会うようで、ドキドキした。自分はこういうのも好きだったのか、と何度あらためて思ったことか。だから、新しい本棚の筋に立ったときは、どんな自分に出会えるのかとワクワクした。ところが、なんとまぁビックリ。これまで見ていなかったことが不思議なくらい、もともと好きな世界のことだったのだ。棚に並んでいたのは地獄絵図や天狗、龍の天井絵などといった展示の図録。つい先日も京都で地獄絵図を見てきたばかりだった私は、呼ばれたような棚の並びに目を見開き、ポカンと口まで開いていたらしい。とはいえ、天狗の展覧会だなんて見たことも、聞いたこともないものも並んでいた。わかってはいたけれど、世の中はまだまだ知らないことだらけだ。ネット上で流れ出ては消えていくようなものではない、ページをめくることでわかる、刻み込まれた文字と写真にある揺るぎない証のようなものを、もっともっと自分の目で見て、体に沁み込ませたいと思った。
四代目がお店に入ったときは、ちょうど世の中に展覧会が増えていった頃。70年代にはまだ難しかったカラー印刷も、ようやく美しく印刷される技術が発達し、図録の充実も目覚ましかったという。
四代目に紹介していただいた山の本の中に、1963年に刊行された伝説的な登山家、ガストン・レビュファの、アルプスの美しさと山岳の記録映画としても知られる『天と地の間に』があった。装丁の美しさに惹かれ、ページをめくると、槍のように尖った崖の先に登った人の写真が目に入ってきた。どこかで見たことあるなぁと考える間もなく、三代目が勧めてくれた本の、岩茶が茂る切り立った岩の写真がフラッシュバックした。偶然とは思えぬ、親子のセレクト。頂点を目指す古書店主たちの生き様を垣間見たような瞬間。自然と手を伸ばした選書には、二人の底にある思いが込められていたように感じた。



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悠久堂書店
諏訪雅夫さん (三代目 写真左) 諏訪雅也さん (四代目 写真右) (すわ・まさお、まさや)
1915年創業。今年で102年を迎える神保町の老舗古書店。現在は三代目と四代目が切り盛りする。主に山岳、動植物、料理、美術を得意とし、各代がそれぞれの専門を担当する。二代目=山岳、三代目=料理書、四代目=美術。ともに同書店で働く四代目のお姉さまは、幼い頃から素晴らしい料理書が周りにあったからか、コルドンブルーやパリのリッツなどで料理を学んだ経験もある料理上手として、出版界では知られた存在である。 |
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悠久堂書店 平日 10:15 〜 18:45 祭日 10:45 〜 18:15 日曜定休 http://yukyudou.com/ 〒101-0051 東京都千代田区神田神保町1−3−2 tel 03-3291-0773 yukyudou3291@gb3.so-net.ne.jp |