兵藤 昭
さんは、鎌倉市由比ガ浜で100年以上続く、老舗酒屋の四代目店主。その昔は日本酒、ビール、焼酎なんでもござれで、灯油も売っているようないわゆる街の酒屋さんだった。兵藤さんが酒屋を継いでしばらくした後、今のようにナチュール系ワインで埋め尽くされた店へと変貌したそうだ。私がワインを嗜むようになったのは、このお店のおかげによるところが大きい。きっと近所にこのお店と兵藤夫妻がいなかったら、ここまでワインを飲む人にはなっていなかったと思う。開かずの、知らなかった扉を開けてしまって以降、私は手持ちのワインがなくなるといそいそとお店へ向かい、いつでも飲みたいときに飲めるよう数本を見繕ってもらう。ワインのことに限らず兵藤さんの話は、ヘぇ~と感心することや、おもしろい!、といったことが多い。話しながら途中で、いつも「あ、この感じ」と思う節が必ずあるのだ。うちのダンナ曰く、お店でかかっている音楽がいいという。「きっとあぁいう音楽を聴いているからいいワインを選べるんだよなぁ」なんて、ワインの「ワ」の字もわからないくせに利いたふうなことを言っていた。ちなみにその音楽とは"Derek Bailey”や”Kip Hanrahan”なんだけれど。
それである日、普段って本読んだりしますか? と失礼ながら聞いてみると、横にいた奥さんの沙羅さんが「本!? 漫画ばっかりよー、昭くんは」と大笑いしながら教えてくれた。本人もニコニコしながらうなずいている。同年代の兵藤さんの読む漫画ってどんなだろう? 私たちが少年少女と言われた時代は、男性の読む漫画と女性の読む漫画が明らかに分かれていた。今のように男性漫画と呼ばれるものを女性も普通に読むということは少なかったように思う。『ドラえもん』や『天才バカボン』のようなものとは別に、という意味だ。例えば、『マカロニほうれん荘』のようなものは、男性が読む漫画、と小学生の私は思っていた。でも実はこっそり従兄弟のお兄さんの漫画を楽しく読んでいたりしたんだけれど……。そんな遠い記憶が呼び覚まされ、その頃、兵藤さんは何を読んでいたのか気になって仕方がなくなってしまった。それでこのたび本棚拝見をお願いしたのだ。
ところが、ところがだ。撮影当日お店を訪れ「兵藤さんの漫画ってどんなの読んでいたんですか?」と尋ねると、沙羅さんが大きな声で「エーーーーッ!! もう捨てちゃって無いですよ!」と、ただでさえ大きな目をさらに見開いて驚きの叫びをあげた。「え? なんでまた捨てちゃったのー?」と私。「あまりに漫画ばっかりあってね、こんなに狭いのにどうするのよー!っていう、やりとりののち、涙をのんで処分することにしたんですよ」と兵藤さん。となると、本は!? と思ったが、撮影スタッフもしっかり揃っている。やるしかないでしょう、と二階に上がったのだ。
本棚にささった本の背に見えたのは「ニーチェ」「ニーチェ」「ニーチェ」! 一体何冊あっただろうか? パッと見ただけでこの名前が矢の如く目にささってきた。
1968年、兵藤さんと私が生まれた年に発表された映画『2001年宇宙の旅』のテーマ音楽は「ツァラトストラはかく語りき」。ニーチェの同名の著作からヨハン・シュトラウスがイメージをして作曲したとも言われている曲だ。そしてこの映画の思想もまた、ニーチェの超人思想や永劫回帰といったことが言われていると何十年にも渡って評論され続けている。私にはまったくもって何のことやらわからず。哲学的なことは苦手中の苦手。何から話をしてこの山を崩していこうか考えていた。本棚に並ぶ背の文字は、黒目をそっと横にずらして見る限り、ゲーテの『ファウスト』、第一次世界大戦を生き抜いたフランスの文芸批評家・モーリスブランショ、マゾヒズムとサティズムの語源である二人を描いたジル・ドゥルーズの『マゾッホとサド』、馬場あき子の『鬼の研究』といった民俗学など、多岐に渡っていて、そのどれもが私には宇宙どころかそれよりも遠い彼方にあるものばかりで、心の中で白目をむいていた。編集さんとカメラマンさんもいつになくツッコミがない。いつもなら「私もこれ好きです」とか「読んでみたい」といったコメントがあるのだが、二人とも無言で出していただいた麦茶を飲んでいる。黙っているから、麦茶が喉を通る音まで聞こえて、ますます焦ってしまった。けれども白目をむきながら思っていたのは、本の内容を理解するしないは別にして、どうして兵藤さんがこんな難しいものばかり、しかも寝室に置いているんだろうかということだった。
もう一冊は宮沢りえの初ヌード写真集『サンタフェ』。発売のニュースを新聞で読んだ時には思わず涙ぐんだ(笑)と、兵藤さん。「これは僕じゃなくて兄貴が買っていたもの。久しぶりに引っ張り出して見てみたんだけど、いやぁ輝いてましたね~。今もいいけど、このときはほんとすごかった!」
本を読むことが大好きな安珠ちゃん。今はこの抱えてきた本をお母さんの沙羅さんに寝る前に読んでもらいながら少しずつ理解していて、いつかは自分一人で読みたいと思っているのだそうだ。その横で、父である兵藤さんは、わからないものは無理にわかろうとしなくてもいいと思いながら哲学書を読みつつ、ごろりとする。気づけば、3人揃ってグーグー寝ている。そして翌朝、読みかけの本をまた本棚に戻す。本棚はだから、寝室にあるのだ。
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兵藤 昭
(ひょうどう・あきら)
神奈川県鎌倉市由比ガ浜に100年ほど続く老舗酒屋「鈴木屋酒店」の四代目店主。音楽と妻と子どもたちをこよなく愛するナイスガイ。お酒は意外と弱いほう、というのがチャーミング。「わからないことは、わからないままでいい。けれども僕は本を読むということ以外に、本という物質が好き。紙に印刷されたインクの匂い、それをめくる感触、いくつもの書体。そういうものにも惹かれているから本を読むことが好きなんだと思う」そんな店主が切り盛りする店内には、冷えたビールは置いていない。あるのは、棚を埋め尽くし、溢れる、山と積まれたナチュールワインのみ。 |
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鈴木屋酒店 〒248-0014 神奈川県鎌倉市由比ガ浜3丁目6−19 tel 0467-22-2434 https://www.facebook.com/suzukiyakamakura |