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職人の手 Web版

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30〜90代の職人16名を取材した書籍『職人の手』。2019年12月の発売を記念して、特別に4篇をWeb連載で公開します。


04 仏師・彫刻家 
自光雲五代 加藤巍山




彫刻家であり、仏師でもある


 ひたすら圧倒される。
 
 加藤巍山(ぎざん)さんの木彫作品をはじめて見たときの感想だ。何度も拝見した今は〝圧倒〞という感想に加え、ありがたさを覚え、無意識に手を合わせてしまう。
 はじめて巍山さんに会ったのは平成26年(2014)の6月、東京・港区の、あるお寺さんでのこと。新しく建立される納経堂の現場だった。その純木造建築を設計し建てるのが京都の宮大工施業会社「匠弘堂(しょうこうどう)」で、社長の横川総一郎さんが紹介してくださったのだ。
 横川社長から「仏師で彫刻家の加藤巍山さん!」と説明されたとき、〝ブッシ〞という聞きなれない響きが一瞬理解できなかった。だが、ブッシが仏師であると気づいた途端、「ひゃー!」と驚いた。よもや、自分の日常で、仏師という職業の方に出会えるとは。
 丸刈りに黒眼鏡、無駄な贅肉のないシュッとした佇まい。そんな巍山さんのストイックないでたちもあって、「仏さまを彫るような方は、俗っぽくないんだ」と、自分とはまったく異なる世界のヒトとして、ひたすら感心してしまったのだった。



 すぐにフェイスブックでも友だちになり、たびたびやりとりするうちに仏師としての巍山さん、彫刻家としての巍山さん、ふだんの巍山さんに惹かれていった。
 それにしても仏師と彫刻家(作家)とは、どう違うのだろう? 辞書によると〝仏師とは仏像をつくる職人〞であり、〝彫刻家とは素材を彫り込み、立体的な造形芸術を表現する人〞とある。
 巍山さん曰く、
「仏像は自分を無にしていくもので、作品は自我を投影するもの」とのこと。
 なるほど、自己の有無とは。
 崇拝され信仰の対象となる仏さまには、できるだけ〝個の感情〞がないほうがいいのかもしれない。いっぽう作品は、その人でなければ、巍山さんでなければ、という個性が欲しい。
 その差があるとはいえ、巍山さんの彫るものはすべて凛としていて神々しい。仏さまは慈愛に満ちていて、作品は哀しみを秘めているようで。でもどちらにもパワーがみなぎっている。「仏像だからこうであれ」だとか「作品はかくあるべし」などとくどくど述べる必要はなし。素直に鑑賞し、おのおのが感じればいいのだと思わせられる。



 仏像彫刻に偏ることも、作品づくりだけに専念するということもない。巍山さんは正真正銘、現代の仏師であり彫刻家なのだろう。これまでもそうした人物がいたのか?を考えると、あっ、巍山さんが尊敬し、目指すところの高村光雲(こううん)もそうではないか!
 高村光雲(1852〜1934)は、明治から昭和初期に活躍した、日本を代表する彫刻家であり仏師である。明治26年(1893)に彫られた作品『老猿』は国宝・重要文化財で、あの有名な銅像〝上野の西郷さん〞も光雲の作だ(連れている犬の「ツン」は後藤貞行作)。
 光雲は、衰退していた伝統的な木彫を、西洋美術の写実性を取り入れた近代彫刻としてら甦らせた。また、仏教彫刻は生涯を通して行ったという。
 後述するが、巍山さんは仏師修業の際、光雲の流れを汲む岩松拾文(じゅうぶん)氏に師事し、また、光雲に敬意を表して、自らを「自光雲五代(じこううんごだい)」と標榜しているのだ。
「安土桃山から江戸時代初期の絵師、長谷川等伯が落款に『自雪舟五代』としているんです。当時、京都の画壇では狩野派が君臨していて、そこにひとり挑み続けた等伯は〝雪舟より五代目である〞という正当性を宣言しました。ここに共感を覚え、私も等伯に倣って名付けたのです」





切なく狂おしい存在感


 巍山さんの作品そのものを間近に見たのは、ある百貨店でのグループ展だった。
 そのときの作品は仏さまではなく「恋塚」と名付けられた木彫だった。これは『源平盛衰記』で語られる遠藤盛遠(もりとお)(のちの文覚上人(もんがくしょうにん))の悲恋「恋塚」をモチーフとしたもので、こんなストーリーである。
 盛遠は、道ならぬ相手である袈裟御前を想うあまり、彼女の夫(源渡(みなもとのわたる))を殺害しようと屋敷に忍び込む。眠っている渡の首を斬り落とし、その首を抱えて屋敷をあとにした。月明かりで首を見ると――あろうことか、その首は愛する袈裟御前だった。
 愛する人を自分の手で殺めてしまったこと、そしてその愛する人は、自身が身代わりになるほど夫を愛していた。つまり、自分(盛遠)のことは眼中になかったというもの。その後、盛遠は自分の行為の愚かさを恥じて出家し、袈裟御前を弔うために恋塚寺を建てたのだった。
 ああ、盛遠よ、あなたはひとり空まわりしてたんだよ、愚かだね……と蔑みたくなるが、巍山さんの「恋塚」は、己の愚かさと罪深さを嘆く盛遠の姿を表していて、とてつもなく切なく、狂おしかった。
 高さ40センチほどとそれほど大きくないのに存在感があって。ずいぶん長い時間、「恋塚」の前から動けなくなってしまったほど。そう、私はその(かお)と震えるような姿形にひとめ惚れをしてしまった。このときは、ほかの作家さんの作品も多数あったけれども、巍山さんの作品がいちばん印象的だった。
 ちなみにこの「恋塚」は一昨年、三井記念美術館で開催された話題の美術展「驚異の超絶技巧!展」にも出品され、その後、大阪での巡回展も含め、注目作品のひとつとなった。





高くそびえ立つようにありたい


 東京・墨田区両国で生まれた巍山さん。小さいときから、お寺や神社が好きな子どもだったそうだ。
「そこにいると落ち着くというか。仏さまを見ると安らぐというか」と言うが、家業は仏教や神道がらみでもなく、彫刻に関する職業でもなかった。
 そこそこやんちゃな学生時代を経て……巍山さんは彫刻家の扉を叩いた。
 浅草の江戸木彫師の作品を見て、感動したことがきっかけだった。ちょうどこのころ、人生に迷いを感じていたが、「オレには木彫だ!」と直感したという。
「親方には七年ほどお世話になりました。欄間など平面の木彫、伝統的な江戸木彫の技術を学びましたが、ふつふつと仏像を彫りたいという思いが強くなったんです。そこで、仏師のもとで修業することにしました」
 欄間は寺社の一部であり、欄間だけで完結はしない。でも仏像はその一体ですべてを言い表すというか、そのあたりに興味を抱いたのだろう。



 さて、次なる師匠探しは、工房に出入りしていた刃物屋さんに相談をして。
 今なら、「仏師」と検索すればぱっと出てくるが、そんなお手軽なものはまだメジャーではなかった。
「刃物屋さんは、営業としていろいろな工房をまわっているので、職人さんの情報をたくさん持っていらして。『いい方がいるよ』と教えてもらい、当時の親方には内緒で出かけました。見学だけのつもりでしたが、後日、あちらから連絡をいただいて修業することを決めました。31歳のときでした」
 そうして、埼玉・春日部の工房に通う日々がはじまった。師匠である岩松拾文さんは、高村光雲の流れを汲む仏師であり、〝星取り技法〞を習得したい巍山さんにとって願ってもない人物だった。
 星取り技法とは、西洋彫刻の技法で日本には明治期に伝わり、高村光雲の工房で採用されていた技法だ。発祥は古代ギリシャ・ローマ時代で、石像彫刻に利用されていたという。
 木彫といえば、材に向かってノミや彫刻刀で一気に彫っていくようなイメージがあるかもしれないが、巍山さんが大切にしている星取り技法では、木を彫る前に原型となる石膏像をまずつくる。
 えっ! 平面にデッサンするのではなく、実際に立体となる石膏像……二度も立体物をつくるなんて!?
「はい(笑)。石膏もつくりますし、粘土像の場合もあります。星取り機という専用の機具を用いるのですが、この道具、今使っている人はほとんどいませんね」



 星取り機はコンパスの役割を持ち、原型に記した無数の星(ポイント)を、完成品となる素材に写し取るというもの。寸分違わぬ原型をつくることが大前提で、それはそれは緻密な作業が続く。
 粘土像に一カ月、そこから石膏で型を取り、いよいよ木を彫るのだが一朝一夕にはいかない。非常に時間と手間がかかる点が、この技法が衰退した理由だろう。
 だが、巍山さんは星取り技法を継承した。伝統に則った技術を用いることも、いずれは誰かにつなぐことも、彫刻家である自分の使命だと言う。
 岩松さんからは技術的なことのほかに、「仏像は毎日拝まれるもの。信仰心がこもるとよい仕事ができる」という仏像を彫る際の心構えを学んだ。
 ここでの修業は六年。その間、自身の作品制作にも挑み、平成16年(2004)には「白髪〜斎藤別当実盛」で日展に入選した。
「ギャラリーと知り合ったのもこのころです。修業しつつ、年に一体ほど作品を渡していました」
 修業の身とはいえ自由時間はちゃんとある。人一倍、制作意欲がある巍山さんは、仏師としての技術を磨きながら、作品制作にも意欲的だった。そして平成18年(2006)、浅草、春日部の10数年の修業を経て独立。雅号は「加藤巍山」、38歳のことだった。



「巍山」の名は〝巍然屹立〞という言葉に由来する。これは、人並み外れて優れているということ。また、山がひときわ高く立っていることを意味するそうだ。
「過去から現在、未来と優れた仏師、彫刻家が存在するなか、高くそびえ立つようにありたいと願って、自ら名付けました」
 仏師として独立した場合、通常は師匠筋から下請けのような仕事を引き受け、そこから少しずつ軌道に乗せていくそうだ。独立したての場合、制作だけでは生活が成り立たず、一般向けの彫刻教室などをするケースが多々あるという。
「自分としては講師仕事をすると、作品の純度が下がるような気がして。でも正直、彫刻だけで稼ぐのは難しかった。それを、まわりの人が心配してくれて。その方々に、月に二回ほど彫刻を教えるということでなんとかなりました」
 そうして一年を過ぎるころには、仏師として、彫刻家としての仕事の依頼が増え、制作に集中できるようになった。




生きるということを表現したい


 彫刻作品をいくつか紹介しよう。「しかみ(徳川家康像)」「布袋」「源太が産衣」「朧月夜〜藤原保晶」「恋塚〜遠藤盛遠」「若武者〜源爲朝」「剛〜木曾義仲」「一条戻橋〜渡辺 綱」「月下桜〜佐藤義清」「白髪〜斎藤別当実盛」というように、歴史上の人物や古典を題材にした作品が多い。
「高村光雲や平櫛田中(ひらくしでんちゅう)(1872〜1979)といった明治、大正、昭和と生きた彫刻家への憧れがありまして。歴史や古典、仏教をテーマにするのも、先人を継承したいから。ですが、自分のなかではもうそろそろいいかなと。自分が仏師であることに立ち返って、新しい表現をしたいと思っています」
 巍山さんの理念を再掲する。
「仏像は自分を無にしていくもので、作品は自我を投影するもの」だが、自身のなかでは〝仏師である自分〞の比重が大きくなったということだ。




 また、新しい表現というと、これまでのテーマをガラリ変えるかと思いきや、
「美術界に一石を投じたいというか、美術界の人たちを凌駕するものをつくりたいんです。仏師である自分じゃないと到達できない、超えられない一線があるはずで。仏像の二千年の歴史、人間の何万年の歴史をテーマにして、人間の尊厳のようなものを守っていく。そういったことを表現したい」
 現代美術界はクラフトや工芸、手仕事を低く見る傾向があるそうで。技術を身に付けるのは大変なのに評価されにくい。お金になりにくく、その状況に甘んじている人たちに憤りを感じているという。
「日本の美術教育では稼ぐことを切り離して捉えているため、アーティスト志望は〝食えない〞のが前提というか当たり前になっているというか。でもそれはおかしくて。〝つくる〞ことと〝食う〞ことは≒(ニアリーイコール)。それは同時に人間の根源であると思いますし。命と向き合ってつくるからこその強さもある」
 冒頭で、巍山さんのことを(正確には巍山さんの作品を)〝神々しい〞と話したが、いやはや、加藤巍山、じつに人間くさいぞ。そうか! この人間くささ――根源的な熱情を持って向き合うから、巍山さんの作品には魂が宿るのか。
「『彫りたい、これをつくりたい』というよりも、自分の命……人間が生きるということを彫刻という言語で表現しています。でも、それを使命感だけでやっていると、食うことがおろそかになる。つくることと、お金や生活を整えることを違和感なく共存させる。そういうバランス感覚は大事なこと」





祈りと鎮魂の仏像を被災地へ


 いっぽう、巍山さんが目指す仏師とは?
 目指し、そして超えたいと思っているのが鎌倉時代に生きた運慶である。運慶(生年不明〜1224)といえば、兄弟弟子の快慶(生没年不詳)とともに言わずと知れた仏師界のスーパースターだ。
「快慶は、数値化し体系化した、いわばマニュアル化しやすい仕事を残し、反対に運慶は、作品にムラがあるというか、それが彫刻的で。800年も経っているのに、運慶を凌駕した仏師は……いないのでは?」
 現存する、運慶作の仏像は35体。たったそれだけなのに延々とわれわれの心に響くということか。
 ここで、ちょっと仏像様式について説明しておこう。
 仏像様式は、平安時代後期ごろに、定朝(じょうちょう)(生年不明〜1057)による「寄木造」で確立された。千年後の今も、仏師たちは、この時代と同じ比率と技法を用いているという。ということは、定朝は造形上の様式をつくっただけでなく、質を落とさずに大量に生産できるシステムを構築したわけで。
 対して運慶ら鎌倉時代の仏師たちは、ひとつひとつがまったく異なる造形で、そこに巍山さんが惹かれるというのもよくわかる。
「仏さまは手を合わせるものなので、つくり手のキャラクターが出すぎると違和感を覚える人もいるでしょう。となると、なにも感じさせないほうがいいのだろうか、とも思いますが、求める人によって、いろいろな仏さまのカタチがあってもいいのでは。自分は〝仏さまを彫るときは自分を殺して〞つくっていますが、そう意識していても〝自分〞が出ちゃうんですけれどね。人間くさいと言われようが、まぁ、それはいいかなと思えるようになりました」
 東日本大震災も、ひとつの契機になっている。
 巍山さんは仏師として、被災地の惨状に自問自答しては苦しんでいたという。
「千羽鶴のように、ひとりひとりが祈りを込めて一羽の鶴を折るように仏像ができれば」と考え、ツイッターで「被災地に祈りと鎮魂の仏像を届けたい」と呼びかけた。
 そこで、巍山さんともうひとりの仏師・三浦耀山(ようざん)さんが一緒に、一体の仏さま、釈迦如来坐像をつくり、被災地である岩手県・大槌町の江岸寺(こうがんじ)に奉納するというプロジェクト【縁〈ENISHI〉仏像奉納プロジェクト】がスタートしたのだった。
 江戸仏師の流れを汲み、近代彫刻の技法を受け継ぐ巍山さんに対し、三浦さんは京仏師の流れを汲み、伝統的な技法を受け継いでいる。いわば対照的なふたりのことを、巍山さんは「どちらかといえば、自分は情緒的で夢想型。耀山さんは理論型で現実型かな」と分析している。
 プロジェクトが発足して八年。これまで、江岸寺の仮本堂では、東日本大震災一回忌法要、三回忌、五回忌、七回忌と、それぞれの法要で鑿入(のみい)れ式(仏像を彫る材に鑿を入れ、仏さまとご縁を結ぶ儀式)が行われてきた。
 そしてつい先日(2019年6月)、京都の三浦さんの工房で、釈迦如来坐像の仮組みがなされたのだ。
「振り返るにはまだ早いですが、多くの人にご協力いただきながら、やっとここまでたどり着きました」と巍山さんはブログに綴っている。
 奉納は、本堂が再建される2020年3月11日。巍山さん、三浦さん、そして携わった多くの人たちの気持ちが届き、叶う日はもうすぐだ。


生きることも彫ることも必然


 自らを極限までに追い込んで研ぎ澄まさせる男――それが巍山さんだ。仏師であり、彫刻家であり続けるためにはそこまでしないといけないのか。大きなため息が出るほど、巍山さんの毎日はストイックだ。
 その姿を見れば、軽々しく〝己を律する〞なんて言えない、言っちゃいけない。
 だからといって、真面目一徹なんかじゃない。まず物腰がやわらかいというか、仕草が可愛いというか。なにより鰻と蕎麦に目がなく、でもお酒は一滴も飲まず、そしてスイーツが大好物。なのに、「好きなときに食べるのではなく、とっておきのご褒美にとっておく」という。なんともチャーミングではないか(笑)。そうした〝人間らしさ〞(もしくは〝人間くささ〞)が人を魅了するのだろう。
 とはいえ、何度も言うが、巍山さんは相当にストイックであることは間違いない。
「朝6時に仕事場に入り、夜9時に仕事道具を置きます」というように、毎日必ずそう行動している。



 制作もスケジュール管理も営業も、すべてひとりでこなし、七、八年先まで予定があるという。
「なるべく前倒しにできるよう、仕事を進めています。月単位、年単位での仕事が多く、大きなスパンでスケジューリングしているので、仕事の進み具合ではなく、時間で区切っています。『今日はここまでやろう』と頑張るとオーバーワークに。すると翌日に疲れが残ったり、コンディションが悪くなったりしますから」
 体調やメンタルに波が生じてしまうと、思考――イメージやカタチの継続が途切れ、長いスパンの仕事に向き合えないという。
 巍山さんは、仏師、彫刻家であるとともに、スケジュールと体調管理をするマネージャーでもあり、そして経営者のすべてをひとりで担っているのだ。
「どれが欠けても彫り続けるのは難しい。バランスよくできていないと、この世界にはいられません」
 さらにまた、〝アートだから儲けなくていい、お金にならなくていい〞ということは甘えだと指摘する。
「その人のビジョンや意志が作品にあらわれてしまうんです。彫刻家はキワでピタッと合わせるような仕事です。甘さとか稚拙さが、カタチというか、ノミ跡、全体のフォルムにも出る」
 ほら。やっぱり巍山さんはストイックで厳しい。なんと、この8月(2019年)には比叡山で得度(とくど)を受けた。よもや出家なさるとは。仏師であるという重みが増しているのは間違いない。



「どちらかと訊かれれば、軸足は仏師のほうに向いています。また、継承や憧れではなくて、確固たる〝加藤巍山〞としての作品をつくりたいという意識もあります。そして、この時代の、この場所に生きていることが必然であること。うん、自分の意志で彫っているのではなく、木のなかに仏さまが埋まっていて、それをり起こすのも必然なんだろうなって」

 彫って、食って、寝て。
 彫って、食って、寝て。
 毎日、毎日、同じ繰り返しの日々で、
 気がつけば一日が黄昏れていきます。

 ある日のつぶやきだ。仏師と彫刻家を行ったり来たり。どちらが欠けても巍山さんは物足りない。後年に遺るものを、命の限り、彫り続けるのだろう。




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加藤巍山

1968年 東京・墨田区両国生まれ

自光雲五代 加藤巍山 gizan.tokyo

山﨑 真由子

1971 年東京生まれ。大学卒業後、雑誌編集業に従事。フリーランスの編集者として食、酒場、筆記具、カメラ、下町、落語など“ モノとヒト” にまつわる分野での仕事多数。著書に『林業男子 いまの森、100 年先の森』、『ときめく文房具図鑑』(山と溪谷社)など。




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