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その5

収穫できるその日まで、
耕し種をまくけんか




都心から中央本線で1時間半ほど揺られた先、神奈川県との県境にある山梨県、上野原駅。神奈川県との県境にある小さな駅を降りると里山の風景が広がる町に、小田晃生(こうせい)さん・友美さん夫妻は、ふたりの子供たちと共に2017年に越してきました。おふたりに会いたいと思ったのは、ミュージシャンとして活動する晃生さんがSNSに投稿していたある文章を目にしたのがきっかけでした。「奥さんに家計簿をチェックされた朝。動揺は手先を狂わせ、味噌汁をぶちかました。お仕事ください。」この文章がなんだかカッコよく感じたのです。



好きなことを仕事にして、フリーランスで働くことで得られる自由や守れる信念。一方、不安定なお財布事情や見えない将来。わたしも夫婦でフリーランスなので、ププっと笑えつつも痛いほど気持ちがわかる一文。それでも何に向けてか解らない見栄をはって隠してしまいがちな本音をさらりと言葉にしていたところに、「これで生きていく」という覚悟みたいなものを感じたのです。気になって見てみるとパートナーの友美さんは上野原で畑を耕し、「トーチファーム」の屋号で農家として独立間近とのこと。やっぱりなんだかカッコよい。そうなってくると俄然気になるのはけんかの話です。ということで、おふたりにけんかの話を聞かせてもらいに行きました。


夫 小田晃生さん 
ミュージシャンとして、ギター弾き語り中心のソロ活動のほか、親子のためのバンド「COINN」、小学生に向けた音楽教室の講師、音楽・絵・踊りを織り交ぜた体験型企画を主催するグループ「ロバート・バーロー」など、音楽の楽しさや豊かさを全年齢に向けて発信し続けている。
https://www.odakohsey.com/


妻 小田友美さん 
劇作家として、映画館やカフェなど身近な場所で気軽に観れる演劇の上演やふたり芝居の創作をする。2017年より畑を始め、2019年5月トーチファームとして独立予定。
https://torchfarmuenohara.wixsite.com/torchfarm/





僕と一緒に生きる人生についてプレゼンしたんです

ふたりが出会ったのは19歳の時。すでにミュージシャンとして活動していた晃生さんが、知り合いに誘われて顔を出した渋谷のクラブでのことでした。

晃生さん
「その日は六本木であったライブ帰りで、ギターを背負っていたんです。イベントに顔を出したものの居場所がなくて、一人でひたすら置いてあったフライヤーを一字一句読んでいた僕に『音楽をやっているんですか?』って声を掛けてくれたのがこの人で」

友美さん
「話したらライブがあるというので『行きますよ』って言って、後日本当にライブに行きました。その頃わたしはお芝居を作りたいと思っていて、一緒に出来る仲間を探していたんです。それで音楽イベントに行ったりライブにいったりいろいろなところに顔を出してつながりを作っていた時期だった。演劇って大きな会場で大勢のスタッフや役者が関わって作るものっていうイメージがあると思うんですけど、ミュージシャンがカフェでライブをするように、気軽に観に行けるような演劇を身近な場所でできたらって思っていた。それで、ライブを見た後すぐに、旗揚げ公演のオファーを小田くんにしたんです。」

晃生さん
「交通費と飲み代出すよ、と言われたので、面白そうだし出てみようかと」

一緒の作品に向かううちに友美さんに惹かれたという晃生さん。告白したものの友美さんにとって当時晃生さんは弟のような存在だったといいます。

晃生さん
「告白というか、プレゼンというか。僕にとっては付き合う=ずっと一緒にいるという意識が前提にあって。好きになったら、死ぬ時のことまで想像するくらい、一緒に生きることを考えちゃう。その時すでに音楽で生きていこうと思っていたので、僕と一緒に生きる人生についてプレゼンしたんです」

友美さん
「この人孫のことまで考えてる…って(笑)そこまで言うなら付き合ってみようかと」




晃生さんに押されて(?)付き合い始めた友美さんでしたが、一緒に時間を過ごすうちに今まで感じたことのない感覚が生まれたといいます。

友美さん
「恋ってザワザワするデンジャラスなもので、そんな部分も含めて恋愛だと思っていたんですけど、一緒にいてこんなに不安がない関係ってあるんだって思えた。すごい充実した時間だなって、付き合っている間ずっと思っていました」

5年の交際を経て、ふたりは結婚。友美さんはそれまで暮らしていた西新宿から晃生さんが暮らしていた立川へと住まいを移します。信頼関係を築いた後、始まった結婚生活では長男(ゆくり)くんも誕生し、さらなる信頼が築かれるかと思いきや……関係は思ってもみない方向に向かいます。



どう生きていきたい?っていう話がしたかった

友美さん
「妊娠中も劇を一本作ったり、子どもが生まれた翌年に東日本大震災が起ったことで『何かやらなきゃ』とふたり芝居を作ったり。活動を続けていたんですが、赤ちゃんを抱えながらやりたいことをやるのは当然難しくて。子どもが大好きって言う気持ちと、ひとりで生きていきたいっていう気持ちが24時間同居しているみたいな感じがありました。にこにこして可愛い可愛いって思いながらも、はぁーやだって投げ出したい自分もいる。でもそういう気持ちを訴えたら負けだという気がしていた。子育てってしんどくて当たり前だろうって。そんな時に仕事とはいえ、したいことが出来て常に外に自由に出て楽しそうな小田くんを見ると余計にしんどくなって」




晃生さん
「自分の活動が中断されてしまう無念さがあったと思うし、そのことを僕が想像できたら良かったんだろうけど、全然気づかなくて。家に居辛いとは感じて、帰りたくないな、こうして男は仕事に走るのか!と思っていた。バンドで音楽活動をしていると濃密なコミュニケーションが必要で、そういうエネルギーを外で使っていた分、家では相手のことを思いやったり、相手の立場になって考えてみるスイッチを切っちゃっていた部分もあった」




友美さんは悩みも葛藤もひとりで抱え、行き場のない思いから晃生さんを無視したり、そっけなくしてみたり。そんな期間が2年半ほど続き、ついに限界が訪れたといいます。

友美さん
「もうだめだ、と思って溜まりに溜まっていたものが爆発するみたいにすべて小田君に話したんです。全然整理できていないぐちゃぐちゃな思いだったけど、言葉にしたらやっとしんどいって言っていいんだって思えた。美しく子育てできなくてもいい、できないことはできないって言っていいって。本当はずっと小田くんと『これからどうしていきたい?どう生きていきたい?』っていう話がしたかった。でもその手前にごちゃごちゃしたいろんな思いが転がっていて出来なかった。気持ちをぶつけてみて、自分を認められて、初めて道が拓けたように感じたんです。やっと夫婦として『これから』の話が出来る、と思えた」

晃生さん
「言葉にしてもらって、初めて『僕は知った気になっていたんだな』と思えたことがたくさんあった。それと同時に『あなたはどうしたい?』と問われたことが、改めて自分の音楽に向き合うきっかけにもなったんです」




夫婦っていう車に新たなエンジンがかかった

作っているものは面白いし、一生音楽を生業にしていくという晃生さんの思いがブレることはないだろうと思っていたという友美さん。それでも音楽で食べていくこと、子どもを育てていくには相当な覚悟が必要なのも、また確かでした。

晃生さん
「音楽で何がしたいの?何を残したいたくて曲を作ってるの?って問われてみて『すみません、あるものを寄せ集めただけでした!』『それでいいの?』『…だめです!』って考えられるようになったというか」

友美さん
「そうやって話している間に、わたし自身も演劇のほかにもやりたいと思っていたことが明確になっていったんです。東日本大震災の後、暮らしを見つめ直す中で農業をやりたいという思いが湧いていた。子どもの頃、農業をしていたおじいちゃんの畑で過ごす時間が多くあったんです。その頃を思い出して、自分のルーツに繋がっていく感覚もあった。それで農業をやりたいといったら、『いいね!』って小田くんも言ってくれて」

晃生さん
「農業×音楽、農業×お芝居ってふたりがこれまでやって来たことと、これからやりたいと思っていることを混ぜ合わせたら、夫婦っていう車に新たなエンジンがかかったような『これでしたよ!』って未来が見えた気がしたんです」




時に子どもを叱るように小田君を叱ったっていいやって

未来が見えると同時に、夫婦のあり方にも変化が生まれたといいます。

友美さん
「九州出身なのもあって男をたてる、みたいな価値観にどこか縛られていたところがあったのかもしれない。でも一度思いをぶつけてからは、なんでも言えるようになった。人はいろんな面を持っているものだし、小田君にも子どもみたいな部分があっていいとも思えるようになった。わたしは時に子どもを叱るように小田君を叱ったっていいやって」

晃生さん
「いや、子どもじゃないよ!ってイライラする時あるけどね(笑)食事の時のコップの位置を無言で直されたりすると、こぼさないよ!って。
あと、最近僕が主張してるのは、『手伝う問題』。男が家事を手伝うって言ったら『手伝うって他人事かい!』って怒られることがあるけど、決して他人事に思っているわけじゃなくて。サッカーでもシュートする人とアシストする人がいるように、今回僕はアシストに回りますからシュートを決めてくださいねっていう、そういう気持ちなんですよ。そこを主張したいんだけど」

友美さん
「『手伝う』って言った瞬間、油断したなって思うよね(笑)ちゃんと一緒にやっているって感じられたらそれでいいことだから、べつにアシストだろうがシュートだろうがこの話、正直どうでもいいかなって思っちゃうし」



晃生さん
「このように、ズバズバと本音を包み隠さず言われるようになったよね(笑)でも、ちゃんと話をしたことで、一緒に過ごしていない時の相手の時間、その見えない姿をどれだけ想像できるかっていうことが大事だよな、と思えるようにもなった」




お互い思ったことがあればその都度話し合えるようになったというふたり。新しい未来が見え始め、長女の庭ちゃんも生まれました。友美さんは家からほど近い農園に通い、農業を学び始めたものの、いざ始めてみると東京で女性が農業をする、ということに壁を感じるように。

友美さん
「『家庭菜園みたいな感じでしょ?』とか『男の仕事でしょ?』とか言われることも多くて、悔しくて。そんな人たちにも『なかなかやるな』と思ってもらえるくらいのことがしたい、と思いました」




音楽も演劇も農業も似ているなって思うんです

友美さんが描く農業ができて、晃生さんのライブやイベント出演などが多くある東京にも通える、そんな場所を探していると、知り合いの多くが移住をしていた山梨県が浮かびました。試しに空き家バンクに登録してみたところ、上野原市の空き家マッチングツアーがあるという情報を得て参加。ちょうど若い世代の移住者を求めていたこともあり、空き家だけではなく、畑の土地や、農業を生業としている現在の友美さんの師匠まで紹介してもらえるという、願ってもみない展開。トントン拍子で上野原への移住が決まりました。



自然豊かな環境の中で子どもたちはのびのびと過ごし、夫婦ともにやりたいこと、やるべきことに向かうことの出来る生活が始まってから、もうすぐ2年が経ちます。

晃生さん
「小田家の議題には『それは仕事なの?部活なの?』っていうのが常にある。やりたいことを仕事にしているからには、楽しんでやりたいのは前提にあるんだけど、その先の「それでどうなるの?」っていうのを自分たちで問いながらやっている。なんか、最近音楽も演劇も農業も似ているなって思うんです。僕たちがやりたいことって、耕して種をまいて収穫を祈るようなことなんだなって。今年はバンドのアルバムが出て、畑の野菜の宅配も始める予定だから、収穫の年なんです」

友美さん
「夫婦も同じだよね。種をまいた後、ただぼーっと芽がでるのを待っていたような時を経て、今はちゃんと芽が出て実るにはどうしたらいいのかって、考えたり話したりできるようになったのかなって。『ちゃんと実るの?』『今年こそは穫れるから信じて〜』『それ前も、その前も聞いたよ〜』って言い合いながらもね」






取材後記

小田夫妻の長男、(ゆくり)くんとわたしの娘は同じ年。娘を産んだ頃、わたしは結婚前から続けていた音楽活動を赤ん坊を抱えながらもしていて、当時ギャラリーのディレクションをしていた夫はほとんど家にいなくて、子どもをひとりで育てているような孤独を感じていました。だからこそ夫には弱音を吐きたくなくて、意固地になって、そして東日本大震災が起こって。自分はやりたいことをやっている、家もある、家族もいる。なのにどうしてこんなに辛いんだろう。当時いつも思っていたことが、友美さんの話に重なるように思い出されました。わたしも娘が3歳の時に大爆発し、それは夫婦の関係のひとつの転機になりました。もう無理だ!と思ったとしても、ちゃんとぶつかり合えたら、ぶつかり合って向き合えたら、それは何か未来を変えていくようなきっかけにもなるんじゃないか、そこから生まれていく希望みたいなものってあるんじゃないか。この連載を始める時に思っていたことを、今回の小田夫妻のはなしを聞きながら改めて感じました。ぶつかり合ったからこそ拓けた道を、まさに今歩いているおふたり。何があってもぶれずに自分の表現に向き合い続けてきた晃生さんと、しんどい時間を経た後に新しい夢をみつけた友美さん。音楽も演劇も農業も、種をまき、収穫を祈ること。そう晃生さんは言いました。夫婦も同じ。友美さんは言いました。その言葉たちからは、仕事も、夫婦関係も、例えどんなにうまくいかない時があったとしても自分たちへの信頼は揺るがない、そんな根本にあるものを感じました。思うように収穫出来なかったとしても、また新しい種をまく。まき続ける。それは、やりたいことをやり続けていくんだ、続けていける、と強く信じられるからこそ出来ることだと思います。自分を信じられる大人はカッコよいのだなあと改めて思い、そんなカッコいいお父さんの爪弾くギターに合わせ歌をうたい、お母さんの育てた野菜が入った味噌汁を飲む小田家の子どもたち、なんだかとっても羨ましいぞー!そんな気持ちでいっぱいになったのでした。




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中村暁野(なかむら・あきの)

一つの家族を一年間にわたって取材し一冊まるごと一家族をとりあげるというコンセプトの雑誌、家族と一年誌『家族』の編集長。夫とのすれ違いと不仲の解決策を考えるうちに『家族』の創刊に至り、取材・制作も自身の家族と行っている。8歳の娘と2歳の息子の母。ここ最近の大げんかでは一升瓶を振り回し自宅の床を焼酎まみれに。
夫はギャラリーディレクターを経て独立し、現在StudioHYOTAとして活動する空間デザイナーの中村俵太。
家族との暮らしの様子を家族カレンダーhttp://kazoku-magazine.comにて毎日更新中。



馬場わかな(ばば・わかな)

フォトグラファー。1974年3月東京生まれ。好きな被写体は人物と料理で、その名も『人と料理』という17組の人々と彼らの日常でよく作る料理を撮り、文章を綴った著書がある。夫と5歳の息子と暮らす。そんなにケンカはしないが、たまに爆発。終わればケロリ。
著書に『人と料理』(アノニマ・スタジオ)、『Travel pictures』(PIE BOOKS)、『まよいながら ゆれながら』(文・中川ちえ/ミルブックス)、『祝福』(ORGANIC BASE)がある。




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