アノニマ・スタジオWeb連載TOP > ケンカのあとは、一杯のお茶。 もくじ > その2 「ボールを投げても届かない 伝わりきらない一方通行のけんか」


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その2

ボールを投げても届かない
伝わりきらない一方通行のけんか


東京吉祥寺の駅からすこし離れた住宅街の一角。小さな庭つきの一軒家があります。瓶に漬けられた保存食が並び、大量の野菜が箱の中に積まれている。ここは野菜販売やイベントを通じて在来種野菜について伝える活動をしているwarmarwarmar(ウォーマーウォーマー)さんの本拠地です。warmarwarmarは高橋一也さんと晃美さんが2011年に立ち上げました。お二人は夫婦で、つまりこの場所は自宅でもあるのです。



在来種野菜とは日本各地に昔から存在していた伝統的な野菜のこと。生産者さんが代々育て、種をとり、その種を蒔いて…と受け継がれてきた野菜は、形が均一でなく大量生産ができないことから今の流通にのせることが難しく、スーパーや市場にほとんど並びません。大量生産と安定供給が可能なように品種改良されたF1(しゅ)と呼ばれる(たね)から作られた野菜ばかりが売られる今、生産者さんの高齢化や後継者の不在など、在来種野菜は絶滅の危機に瀕しています。そんな在来種野菜と種を継いでいくことの大切さを伝え、生産者さんとわたしたち消費者をつなごうとしている高橋さんご夫妻。わたしがお二人に出会ったのもそうしたイベントを通じてのことでした。



強い意義のある活動に、こんなことをしてくれている人たちがいるんだ…! と心から感銘を受けました。一方、世にほとんど知られていない在来種野菜の普及を夫婦で「仕事」にするのは、こちらが思う以上の大変さがあるだろうな…とも思いました。何かを始め、成していくのにけんかなくしてありえない、という持論を持つわたしは、そこにけんかの匂いを感じました。そんなわけで、在来種野菜についても聞きたいことは山ほどありますが、今回はお2人にけんかの話を聞きに行きました。


夫 高橋一也さん 
上海に留学後、キハチアンドエス青山本店に調理として勤務していた時に「有機野菜」と出会う。その後株式会社ナチュラルハウスに入社し、同社の事業を無添加食品からオーガニック食品事業へと切り替えることを推進。店舗統括、販売企画、青果バイヤー等の業務を経て取締役に就任。東日本大震災をきっかけに、同社を辞任し、warmarwarmarを立ち上げる。在来種野菜の販売、有機農業者支援、新しいオーガニック市場の開拓などの活動を続ける。


妻 高橋晃美さん 
音楽専門学校卒業後、出版社や輸入雑貨を扱う会社に勤務。一也さんの独立を期に退職し、夫婦でwarmarwarmarを立ち上げることに。在来種野菜について伝えるZINE「八百屋」の制作やイベントの企画、外部にむけた発信などプロモーションを一手に担っている。





部屋の荷物をね、一也に送りつけたんです

2人が出会ったのは、今の活動からは随分離れたイメージのある場所、新宿のMC1000というクラブだったといいます。一也さん23歳、晃美さん20歳。一也さんは当時表参道にあったキハチレストランで調理師として働きはじめた頃。

一也さん
「キハチで働こうと思ったのは、とにかく貧乏で美味しいものが食べたかったという理由なんです。雑誌(Hanako)に掲載されていたキハチを見て、ここで働いたら美味しいもの食べれそうっていう、そんな動機。調理学校も出てない全くの未経験で門を叩いた人間は史上初だったらしく、面白がって入れてくれた。入ってみたらキッチン内はみんなフランス語だし、面食らいつつ朝から晩まで働いて、まかない食べて、仕事の後は遊びに行くっていう生活。その頃はみんな仕事して遊んで、ってそんな時代だった」

晃美さんは通信講座の教材を制作する小さい出版社に勤めていました。専門学校では作曲を学んでいたほど、音楽が好きだった晃美さんも毎晩のように音楽イベントに出かけていたそうで、行くところ行くところで2人は顔をあわせるようになります。そんなよく集まる仲間の1人という関係が数年続いたのち、27歳の時に晃美さんはニューヨークに引っ越すことに。

晃美さん
「一度好きなことをしてみようって決めて、部屋の荷物をね、一也に送りつけたんです。荷物と飼っていたスズキっていうインコを」

一也さん
「一応そのちょっと前に付き合おうか、みたいになっていたんだけどニューヨーク行くっていうし、荷物とインコは送られてくるし」



そして決めていた半年という期間を終えニューヨークから帰国した晃美さんは、預けていた荷物を取りに行くのではなく、そのまま一也さんの家で暮らすことに。そんなふうに2人の暮らしが始まりました。

一也さん
「その頃キハチをやめてデリのお店の立ち上げをしたりしていたんだけど、相変わらず遊びすぎて無茶苦茶だったんです。それを晃美がちょっとずつ、変えていってくれた」




つまらない人になったな、と思ってしまった

30歳になった時、生活を変えようと決めた一也さんは、今ではオーガニック食品販売で広く知られるナチュラルハウスに入社します。まだオーガニックという言葉が一般的ではなく、店舗も少なかった頃。

一也さん
「キハチ時代に有機野菜と出会って、面白いなと思っていたことがきっかけです。今まで無茶した分いいことしようって心に決めて、いい食材売らなきゃ、オーガニック伝えなきゃって、一生懸命やってるうちに会社の規模も大きくなって、社長の右腕みたいになっていました」




無茶をした20代を共に過ごし、変化を迎え2人は結婚しましたが、生まれ変わったように働く一也さんに対して、当時晃美さんはつまらない人になったな、と思ってしまったと言います。

晃美さん
「もう何してもつまらない(笑)会社人間と化して身体もおかしくなっていて。黒目の輪郭がゆがんでドロドロ。そして足の裏から変な液体が出て超くさい(笑)洗濯してもカピカピに靴下が固まってとれないくらい。もう辞めていいのにってずっと思っていました」

一也さん
「その頃は罪悪感がずっとありました。生活に原因があったのかはわからないけど、子供もずっとできなかったし、全然一緒にいられない。何のために結婚したんだろう?って」




人と繋がり関わりながら、一也がやりたいことができたら

そんな生活をおくっている中で東日本大震災が起こります。ナチュラルハウスの仕事を通して出会った農家さんから聞いた(たね)の話が一也さんの心を動かしました。代々受け継いできた土と種が震災と原発事故によって途絶えてしまう、という話でした。社会がガラリと変わろうとしている時なんじゃないか、この中で自分にもできることがあるんじゃないか、と思い始めたと言います。

晃美さん
「話したいことがあるって車でレインボーブリッジに連れて行かれたんです。なのに見晴らしがよくもなんともない奥まったところで『やりたいことがあるんだけど』って。なんでレインボーブリッジだったのか(笑)」

一也さん
「わかんない(笑)なんか決意表明しなきゃと思ったんだろうね」




当時、晃美さんは輸入雑貨を扱う会社で働いていました。それまで晃美さんにとって仕事とは淡々と向き合う、ある意味で割り切ったものでした。

晃美さん
「ずっと辞めたらいいのにって思っていたくらいだから、もちろん反対なんてなくて。でも面白いのは新しいことを始めようとしたタイミングで、料理家さんやお店をされている方との色々な出会いがあったんです。ずっと吉祥寺に住んでいたけど、会社と家を往復するだけで地元のお店との関わりってなかったんですよね。なのに活動をし出した途端、たくさんの繋がりができた。こうやって人と繋がり関わりながら、一也がやりたい種を守ることができたらとてもいいな、と思ったんです」




そして晃美さんは、自身も退職し夫婦で在来種野菜や(たね)について伝え届ける活動を仕事にしようと決意しました。時を同じくして子供を授かり、息子の吟侍(ぎんじ)くんも誕生しました。家族も増え、立ち上げた新しい仕事は「在来種野菜の宅配ボックス販売をメインにする」ことにし、広報は晃美さんが担当することになりました。

晃美さん
「だってね、一也が考えた会社の名前が『土と愛』だったんですよ(笑)退職金つぎこんで『土と愛』。銀行で「土と愛さ〜ん」って呼ばれるんだよって。それで『warmarwarmar』という名前を提案したんです。やりたいことを聞いた時に『底力』という言葉が浮かんだから。底上げしていく、下から温めていく、そんなイメージです。一也のやりたいことは『土と愛』じゃ伝わらないよって(笑)」




晃美とだから成り立っている

一也さんの信念と晃美さんの人に届く言葉やコミュニケーションが一つになって、warmarwarmarは、繋がりが繋がりを呼び広がっていきました。

一也さん
「いろんな人がすごく応援してくれるんです。野菜が人を繋げてくれている。これはただのオーガニックという活動では生まれなかった繋がりだとおもう。在来種、(たね)というキーワードがあったからこそ出来た繋がりで、それを見つけられたことが経営センスがあったなと」

晃美さん
「今すごいドヤ!って言ってるけどさ…経営厳しいですから(笑)野菜ボックスの注文がどんどん来るかとおもったけど、そんなことは全くなく」




この秋で立ち上げから実に8年目。決して順風満帆ではなかったけれど、それでも夫婦のけんかはまったくない、と一也さんはいいます。その横で信じられないという顔をする晃美さん。散々怒っても、一也さんはなにを怒っているのかすら気付かない、だからケンカしてるつもりなのにケンカにすらなっていないと言うのです。

晃美さん
「信じられないくらい鈍感なんですよ。仕事でもそう。売り上げがあがっていかないと苦しくなる時ってある。農家さんも同じような苦しみをもっているし、贅沢したいわけじゃない。でも今が苦しいっていう時でも彼はもうやりたいことしかしないから」

一也さん
「晃美とだから成り立っている、っていうところはすごくあると思っています。できないことは本当にできないから」

晃美さん
「アウトプットの部分がほんとにできないよね。LINE2時間でやめたし、SNS一切やらないし。メールひとつちゃんとできないのを見ていると、もう本当ヒヤヒヤじゃなくてイライラするんです」




これが「商売」だったら続けていくか迷い始める、と晃美さんは言います。でも今していることは仕事だけど、仕事じゃない道でもあるから、と。

晃美さん
「一也はやりたいことしかしていないけど、農家さんたちの想いを背負ってる。人間らしい喜びも悲しみも一緒に受けとめて、人とお金じゃないものまで交換しながら野菜と種の活動をしてる。それができる人だし、やるべき人。と、いうところで結局全てを許されちゃうってところがまた、本当に腹たつんですよね〜」

晃美さんがそう話す横には、まるで自分の話ではないかのようにニコニコと笑っている一也さんの姿がありました。


取材後記

話の後半、一也さんの鈍感力によって我が道を突き進み、我が道を突き進むことで周囲から認められ許される、という最強のループを聞くうちに、思わず「…くやしいですね!!」と晃美さんに共感してしまいました。鈍感力とマイウェイ感が我が夫と非常に共通する故、ボールを投げても投げても相手に届かない一人キャッチボールの様な虚しさに勝手に思いを馳せてしまったのでした。 決して一般的ではない在来種野菜を扱い夫婦で仕事をするからには、さぞ困難とぶつかりがあるだろう、との想像に反して「けんかはない」と言い切る一也さんとそれにのけ反る晃美さん。そのように自分が「こう」と思ったら決してぶれない一也さんですが、そんな一也さんの「こう」を、ほかの人が共感できるような言葉や形に変えて手渡しているのが晃美さんなのだと思うと、一也さんの一番の理解者は晃美さんなのだな、と思います。そして一也さんの中にある核のようなものを他の誰かに伝えていくことを通して、晃美さん自身の世界にはたくさんの出会いや繋がりが生まれていく。晃美さんの世界の広がりとともに、一也さんの届けたいものが、より大きくたくさんの人に伝えられるようになる…。けんかにもならない一方通行な夫婦の関係は、実はゆるやかな螺旋のようなかたちで繋がり、相乗効果をうんでいるのかもしれない…! そんなことを感じた夫婦のお話でした。それにしても在来種野菜、(たね)、というまったく「正しい」活動をしているお2人が大事な局面で何かを決断する時の言葉がほぼ「面白そうだったから」であったことも印象深かったです。何かを決める時正しいか正しくないか、うまくいきそうかいかなそうか、じゃなくてまず「面白そう」とおもえるかどうかって、とても大事なことだよな、と改めて思います。そして同じ何かを「面白い」と思える限り、二人は大きな螺旋をきっと描き続けるのだな、とこれから先の活動がますます楽しみに思ったのでした。




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中村暁野(なかむら・あきの)

一つの家族を一年間にわたって取材し一冊まるごと一家族をとりあげるというコンセプトの雑誌、家族と一年誌『家族』の編集長。夫とのすれ違いと不仲の解決策を考えるうちに『家族』の創刊に至り、取材・制作も自身の家族と行っている。8歳の娘と2歳の息子の母。ここ最近の大げんかでは一升瓶を振り回し自宅の床を焼酎まみれに。
夫はギャラリーディレクターを経て独立し、現在StudioHYOTAとして活動する空間デザイナーの中村俵太。
家族との暮らしの様子を家族カレンダーhttp://kazoku-magazine.comにて毎日更新中。



馬場わかな(ばば・わかな)

フォトグラファー。1974年3月東京生まれ。好きな被写体は人物と料理で、その名も『人と料理』という17組の人々と彼らの日常でよく作る料理を撮り、文章を綴った著書がある。夫と5歳の息子と暮らす。そんなにケンカはしないが、たまに爆発。終わればケロリ。
著書に『人と料理』(アノニマ・スタジオ)、『Travel pictures』(PIE BOOKS)、『まよいながら ゆれながら』(文・中川ちえ/ミルブックス)、『祝福』(ORGANIC BASE)がある。




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