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アノニマ・スタジオWebサイトTOP > わたしをひらくしごと もくじ > 第6話 アース関係 杉山開知さん

「働いて生きること」は、人の数だけ、物語があります。取材でお会いした方、ふだんからお世話になっている方、はたまた、仲のいい友人まで。これまでに出会った、他の誰とも似ていない仕事をしている「自分自身が肩書き」な人たちに、どのようにしてそうなったのか、話を聞きにいきました。

写真:藤田二朗(photopicnic)

地球に生きる私たちの本質を洗い出す

第6話 アース関係 杉山開知さん


地球の上に立ちながら、意識は空を飛び越え、宇宙の彼方へ。
たったひとりで追究し続け、研鑽し尽くした先には、
世界中の誰とでも共有できる道具ができ上がっていた。
インディペンデントで「地球暦」をつくってしまった、
杉山開知さんをひらく、しごとの話。

名前

仕事

アース関係

この仕事を始めたきっかけ

ワールドレコード樹立


杉山開知(すぎやま・かいち)
1977年、静岡県生まれ。アルバイトで経験した時間についての極まりと、疑問をもったら追求し尽くす元来の性格により、2004年から暦の研究を始める。2007年、地球人であれば誰もが理解できて使える「地球暦*」を考案。現在、静岡県の中学校で地球暦が採用されている他、山形県・つるおか食文化市場FOODEVERや、11月にリニューアルオープンを予定している愛知県・安城市文化センタープラネタリウムのホワイエなど公共の場での常設展示も。現在は「地球暦」の新年である春分(今年は3月21日)の時期に合わせ、リリースイベントを全国で展開中。
http://heliostera.com

*太陽系時空間地図。宇宙の太陽系の惑星である「地球」にいる自分が、いまがいつで、どこにいるのかがわかる暦で、民族や国を超え、地球人であれば誰もが理解でき、共通して使えるのが特徴。時代的思想や政治目的に左右されることなく宇宙の理を提示している点で、根本的でありながら画期的な発明。



右のことを左と言い

──職業を訊かれたら普段、なんと答えていますか?

その質問がいちばん困る(笑)。建前的には、自営業とか、自由業とか。作家って言ってみるときもあります。

──職業といえるかどうかは別として、私が思う杉山開知とは「考える人」。名前どおり“知”を“開”くイメージです。考えて、考えて、考え抜くという性質は、子どものころから?

すごく鮮明に覚えてるのが、小学校3~4年生のときの算数の、台形の面積を出す公式。(上底+下底)×高さ÷2って教わるんだけど、本当かなあ、もっと他のやり方があるんじゃないかなって疑問に思って。その授業は1時間で、みんなはどんどん先に進んでいっちゃうんだけど、僕はそれについて1ヶ月考え続けていた。

──成績はよかったの?

うーん、どうだろうか。これ、僕の小学1年生のときの通信簿なんだけど、先生のコメントを読みますね。「1学期には右のことを左と言い張ったりして納得してくれず、ずいぶん困りました」(笑)。

──すごい。右は裏から見たら左なんだって、いまでも講演なんかで話してますもんね。

3年生の通信簿。「自分なりの根拠をもって考えを述べることができます。算数の掛け算の学習ではいままでの知識を活かして、計算の意味を考え出そうとしました」。

──計算の意味を! まさしく“開知”だねえ(笑)。もっと考えたかった、そして納得したかったんですね。

4年生は「4時間目の算数の時間に始まって、給食の時間も惜しみ、昼休みもすべて使って、単位の計算の仕方をひとりでずっと考えていました。4と5/11を、6と1/5に直そうとずっと考えており、友だちがやり方を教えてくれたのですが、自分の方法でやることに夢中でなかなかその方法を取り入れませんでした」。

──うわあ、頑固な開知少年が目に見えるようだ(笑)。




ゴー! ウィ・キャン・ドゥ!!

小学校のときはまだ勉強が楽しかったんです。自分でいろいろものを考えられたから。でも、そこから先はわりと、覚えてテストするっていう作業になるじゃない? それがものすごく苦痛で。

──地元の高校を卒業して、音楽の専門学校に入学するために上京したんですよね。

まあ、いわばドロップアウトして音楽の専門学校に行ったわけです。だけど、同級生が音楽の仕事を請け負い始めたりしてプロみたいになっていくなか、僕は自分が思う何かにはなれなかった。いろんなことに興味があって、あんまり音楽に集中してもいなかったし。で、卒業後も就職せず、ずっとやってたピザ屋のバイトをそのまま続けていました。

──ドミノ・ピザでしたっけ。

そう。何をするにもすごい分厚いマニュアルがあって、その膨大な仕組みを覚えるのにすごく興味があって。ピザ屋のバイト自体は高校生のときからやっていたから、その時点でキャリアがかなり長くなっていて、アルバイトながらも社員の業務ができるポジションに昇格したんです。そうすると、アルバイトの子を自分で面接して採用して、教育もできる。つまりお店をハンドリングできるようになる。

──20歳くらいのときってこと?

うん。で、とにかくマニュアルがすごくて、特殊部隊みたいにトレーニングさせられるの。配達のバイクも適当に走るんじゃなくて、どこでブレーキを踏んで、どこでウィンカーをつけるかまで、細かく全部決まってる。

──へえ! 当時は「注文から30分以内でお届け」という謳い文句がセンセーショナルで、宅配ピザの花盛りでしたよね。

なかでもいちばん大変だったのが、年末年始の銀座の、御用納めが重なるとき。電話は鳴りっぱなしで、とてつもない量のオーダーが入るわけ。で、銀座店に全国から精鋭が集められるんです。

──その日、開知くんも助っ人に入ったんですね。

バイクを40~50台集めてきて、大量のチーズを確保するために保冷車まで借りてきて。1秒1秒のオペレーションが命がけみたいな状態。配達に出たバイクがモニターに出ていて、何時何分に誰がどこを走っているかがわかる。いまみたいにGPSはないから、オペレーターが地図も番地もルートもすべて暗記していて、配達から帰ってくる時刻を予測して逆算して、次の配達を組む。まるでF1のピットインみたいに。誰かが何かひとつミスすると、すべてのオペレーションが少しずつ狂っていってしまう、そういう究極的な時間と空間の緊張感。
そうそう、こないだわりと新しくできたドミノに行ったら、当時のスピリットがなくて、ほんとぬるい! って感じだったよ(笑)。僕にとっては1枚つくるのに真剣だったっていうかさ。チーズを1回できっちり56g撒くために、みんなで朝練やってたからね。ストップウォッチ持って「プレッシャー、プレッシャー、プレッシャー! ゴー!! ウィ・キャン・ドゥ!!!」って(笑)。

──まだ完全に再現して言えるし(笑)。

で、その日の銀座店は、ドミノ・ピザ史上で最も売れた店舗になったんです。

──しかも世界で、ですよね。

そう。ワールドレコードを樹立して、やったー!! って。いままでの努力が実った、やったかいがあった! って。それでまた自分の店舗の日常業務に戻って、ふと……この先、これ以上、どれだけのピザを焼いたらゴールにたどり着くんだろう、と(笑)。

──極限までいって、燃え尽き症候群になってしまった。

毎月、毎月、月報を出すんだけど、今月はこれだけ売ってくれ、来月の目標はこれだって、先月までのことはなかったようになっていっちゃう。ただ働き、ただピザをつくり、僕らの足跡は何も残らない。仕事自体はすごくやりがいがあったんだけど、なんのために俺はこれをやってるんだという、根本的な思いに駆られちゃったんだよね。




素朴で壮大な疑問の始まり

それで結局、ドミノは辞めてしまった。やることがなくなっちゃったから、海外に行ってみようかなと思って、2~3ヶ月間だったかな、タイ、バリ、オランダ、ドイツ、フランスをひとりで放浪したんです。きっとこの旅が終わるころには僕のやりたいことが見えてるにちがいないって、自分の道を探しにね。
でも結局、やりたいことなんて全然見つからなかった。帰国して、仕事もない、お金もない、目標もない。音楽の夢も挫折してしまっているし、全部から逃げてはみたものの、自分のなかの出口がない、みたいな。

──22~23歳くらいのときですね。

ひとり暮らしの東京の部屋に戻って、タイで買ってきたハンモックを真冬のベランダに吊るして、やるせないような気持ちで揺られてたんだよね。そのときにほんとにたまたま、部屋のなかのちょっとあいてる襖の隙間にノートパソコンが立てかけられているのが見えた。





じつはその少し前に親父が亡くなっていて、形見のノートパソコンを僕がもらっていたんです。それは記録魔の父が入院先で何かをこまめに打ち込んでいたもの。きっと人が死に向かっていく最も辛いところを克明に記してあるんだと思って、それまで僕は読んでみようと思ったことがなかった。
でもなぜだかそのとき、ふとその気になって電源をつけてみたんです。そしたら、そこにはたしかに闘病の記録もあったんだけど、でもそれ以上に、将来の道筋みたいなことがびっしりと書かれていた。独立して会社を興したいとか、孫ができたら家を建てたいとか。明日死ぬかもしれないのに絶対にこれをやりたいっていう親父と、時間があり余っているのにやることのない自分との、大きなギャップ。それを感じた瞬間、実家に戻ろうと決めました。


それで、大黒柱を失って荒れ放題のままになっていた、うちの畑や山に手を入れ始めたんです。何しろ時間だけはたっぷりあったから。でも身に染みついちゃってて、ドミノ時代の習性が(笑)。この木を伐るのに何分かかるかなとか、この面積をどのくらいの効率で片づけられるかなとか、畑にいながらも考えてたわけ、“畑違い”のことを(笑)。
作業していて、夕方になると街の明かりが灯るじゃない? そこに新幹線がビャーッと通っていく。そんな風景を見ながら、世の中が動いているアルゴリズムと、自然のなかのライブリズムの対比を感じずにはいられなかった。だって、時間を気にしているのは人間だけですよね。生きるってなんなんだろうなあ、仕事ってなんなんだろうなあとか、そこですごい考えちゃったんですね。






みんながわかるもの

──両極端の状況に身をおいたことで、まさに身に沁みたんですね。そこで“時間”の実体について考え始めた。

そのころ、1年を13ヶ月と考える「13の月の暦」を教えてもらって。これまで西暦しか知らなかったから、違うカレンダーパターン=時間の計り方が存在するっていうこと自体がすごいセンセーショナルなことだったの。たぶんきっかけはなんでもよかったと思うんだけど、とにかく、いまのこの社会を動かしているアルゴリズムとは違うパターンもあることを知ったというのが重要だった。





──それで、自分なりに仕組みを解明しにかかったわけですね。

最初は、もしかして月や宇宙のリズムと自分がシンクロしてるのかなと思って、とりあえず自分の行動を時刻ごとに細かくモニターしてみた。まだ何がどうつながっているかわからなかったから、とにかくひたすらメモることから始めていって。調べて、考えて、書いて、3年くらい探求し続けました。
それから、メキシコに行ったんだよね。「13の月の暦」の起源は、古代マヤ暦だから。先住民で唯一、マヤ暦の伝承を受け継いでいるイッツァ族の長老に話を聞くために。





──時間とはマルシカクであるということ、数万年単位のロングカウントで時を計っていること、すべてはピラミッドに表現されていて、それは社会システムであり、宇宙的教育であり、生き方であること……。このあたりの話もとてもおもしろいんですが、それだけで1冊の本になっちゃうくらいなので、ここでは割愛しましょう。


その、マヤの人たちの時間に対する考え方が凝縮して描かれているピラミッドの設計図を見せてもらって、衝撃を受けて。お願いして、書き写させてもらったんです、写経みたいに。帰国の日を延ばして、1週間くらいかかったかなあ。
それでね、メキシコの最後の日に、満月を見たの。で、十何時間移動して日本に帰ってきて、静岡に戻る新幹線の車窓から、地球の裏側で見ていた月をまた見たときに、いままで自分が考えてきたカレンダーパターンがリセットされて、先住民と現代人の間に、いま自分がいる感覚がしました。それから3年間は、寝ても覚めてもピラミッドのことばかり考えていましたね。
その間にメキシコの長老にも何度か会いにいったりしつつ、自分なりにマヤ暦の理解を深めていって。それで、壁かけタイプのマヤ暦を100部ほど、手描きで自作したんです。マヤ暦はものすごいものだと思っていたから、それを人に伝えたくて、友だちにあげたりして。でもね、僕の情熱だけじゃ、なかなか伝わらない。






──そう簡単に理解できるようなものではないですね。これは、なかなか。

しかも西暦しか知らず、それがいったいなんなのかって考えたこともない人に、これが超古代のカレンダーパターンなんだっていきなり主張しても、なんのリアリティもない。言ってみれば、古い時代のOSをいまのPCで扱えないようなずれ・・と限界を感じてしまった。
こういったものは、みんなが同じものの見方をしていないと理解されにくいんだな、と。であればまず、地球が太陽系を365日で1周して、月のめぐりがあって、というみんながわかる前提を提示することが必要だろうって。それで2007年の秋から冬にかけて「地球暦」というのを考え始めたんです。

──マヤ暦を理解する助けになるものとして、「地球暦」をつくり出したんですね。





すべての人が等しく使える道具として


──とにかく対象にとことん没入してしまうんですね。ものすごい凝り性というか。

僕はひとつを集中してやりたいタイプだと思う。誰に頼まれているわけでもないんだけどね。それに、ひとりになることもすごく重要。必要なときは、鍵もかけて、ケータイも切って、ブレーカーも全部落として。自分の気配も消したいから。



──自分の気配さえ邪魔なんだ!

すごく繊細な作業をするときって、まわりの環境も自分の心のなかも、ざわざわしてたらできないじゃない? 俺がやってやろうっていう気持ちでも、できない。自分の実存的な部分を消すようにするというか。とくに地球暦は“地図”だから、自分を極力消す必要があるのかも。仏師のイメージとも近いかもしれない。




──そんなに長く集中して考え続けるなんて、私はできないなあ。

基本的には、わからない悔しさが原動力になっている。僕、まわりにはわりと温厚なんだけど、自分のなかにはちくしょう! みたいな激しい思いがあるんです。地球暦を発案したころはとくに、葛藤と迷いって感じだったんですよね。

──いまは、その葛藤や迷いはもうない?

ない。すごくすっきりしています。いまはむしろ、必要なことだけみんなに伝えればいいかなと思っていて、要素をなるべく削いでいく方向に移行しています。
地球暦を使っている人たちがそれぞれに、私にとっての地球暦はこうですって、自分の人生の物語のように伝えてくれ始めている。こないだも中学生が大人に教えてる姿を見たりして。まだまだこれからみんなに使ってもらって深めていってほしいっていうのはあるけれど、地球暦ができて10年、ベースはできて、僕のなかではひと区切りついた感じがしています。




──たしかに、マイナーチェンジとチューンナップはしているけれど、スタイルは完成した感じがありますよね。

いまのところ地球暦は手描きでつくっているんだけど、天体位置をフリーハンドで表現するっていうのはそもそも無理なんだよね。いまは超気合いで描いてるんだけどさ(笑)。で、今後は自動描画になっていくと思う。そしたら、各国のタイムゾーンに合わせてつくることもできて、どのエリアの何年の地球暦、なんていうのもつくれちゃう。
そのためのプログラム自体は、じつはもう完成しているんですよ。ARやVRやAIを使って、歴史や統計のマスデータなんかもすべて地球暦にたたみ込む。そうすると、いままでみんなが時系列を直線的に考えてきたことに対する変化のヒントになる。いつかそういうときがくるんじゃないかなと思ってるんです。

SNSなんかもそうだけど、タイムラインはたいがい直線だもんね。ああいうものも、地球暦的な円=サイクルで捉えるとすごくおもしろくなると思うんだ。でもたぶん、遅かれ早かれそうなるんじゃないかな。こんな知的生命体が単一のものさし(西暦)で社会をつくってること自体が不思議だもの。


──多くの人がそれを疑問にすら思っていないっていうのがまた不思議ですよね。

そうそう。人類が外側から地球を見られるようになった段階で、地上から天を追いかけていたときの考え方とは変わっているはずなんです。地球暦的なフォーマットなら、思想も民族も関係ないし、人間だけでなく、虫でも鉱物でも、地球に暮らす生物すべてで共有できる。自然の時間と人間の時間を両方見られることには、きっと何か可能性があるんじゃないかなと思っているんです。そして、時計でもフライパンでも、みんなが当たり前に使っている道具は、もはや作者が誰だかわからないほどに浸透しているでしょう。地球暦もいつか、そういう存在になればいいなと思っています。

※地球暦そのものの考え方については、こちらのmammothのインタビュー記事もご覧ください。



杉山開知さんの “仕事の相棒”
アース(接地)と海
「僕にとって、アースはへその緒、海は胎内みたいな感じかな。海にはよく入ります。自分を発散したり、リセットしたりするときにはとくに。PCのアースをとって放電させるようにしたらとたんに体調がよくなったのをきっかけに、いまは部屋や車といった空間単位も炭で囲ったりしてアースをとっています。自分の体と地球の電圧をなるべくイコールにすることが僕にとって最も重要。地面に接することで地球とこんなに簡単につながれるなんて、灯台下暗しだよね」



インタビュアー

野村美丘(のむら・みっく)

1974年、東京都出身。東京造形大学卒業。『STUDIO VOICE』『流行通信』の広告営業、デザイン関連会社で書籍の編集を経て、現在はフリーランスのインタビュー、執筆、編集業。文化、意匠、食、旅、犬猫など自分の生活の延長上をフィールドに公私混同で活動中。座右の銘は「ひと文字ひと文字にキレあれ」。この連載の撮影を担当している夫とphotopicnicを運営している。
www.photopicnic.pics


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