<<連載もくじ はじめに>>
<番外編>自然あそびの場所選びガイド
ーひとつの地域に何度も通ってみるー
宮川流域(三重県大多気郡大台町)
お父さんと子どもが遊びに行くとき、普通は「川遊びがしたい」とか「山登りがいい」とか「釣りする?」という風に、まず目的があって、それから行く場所を決めると思う。今回は「どんな遊びが出来るかわからないが、とりあえず●●(地名)へ行こう」という、「遊び→場所」とは逆パターンの「場所→遊び」ということを提案したい。四季折々の自然に触れることが出来るということもそうなのだが、その地域の人々との触れ合い、その地域の文化や伝承、歴史、近隣地域との関わりまで深く知る楽しさを、ぜひ経験してほしい。ぼく自身、何箇所か決まって遊びに行くフィールドがいくつかある。その中からアクアセレクトの仕事でも関わりのある今回は三重県多気郡大台町(旧:宮川村)地区をご紹介する。ここの魅力は何と言っても「日本一の清流・宮川」にある。国土交通省一級河川水質調査の第一位に何度も輝いている河川だ。
◆気候
ー雨が多く水が美しい
この地域の一番のお勧めは川遊びだ。とにかく水が美しい。どうしてこんなに水がきれいなのだろうか。調べてみると、この地域が「日本最多雨地域」であることや「東アジア特有の温暖湿潤気候」の影響を受けていることが重要らしい。紀伊半島の南部中央から北東へと広がるこの地域は、夏には黒潮の湿った空気の影響を受け、秋にはしばしば台風の上陸地点となり甚大な被害を受ける。この水量の豊富さが人々の生活を支え、「川文化」ともいえる文化を育んできた。さらに下流には伊勢神宮。中下流域は「宮域林」として地域をあげて保全されている森林がある。これらの存在もこうした気候と結びついてうまれた歴史であり情景だ。このように、まず遊びにいったことのあるフィールド特有の気候に興味を持ってみると、さまざまなことが繋がってわかってくる。
◆自然環境
ーほかでは見られないさまざまな生き物
気候は地形の形成に繋がり、地形は「どんな樹木、植物が多いのか」や「どんな動物や昆虫が多いのか」に繋がる。ちなみにこの宮川は、その雨量の多さから、紀伊半島をナイフでえぐり取ったようなV字峡谷を形成している。最上流部には「大杉峡谷」という日本三大峡谷のひとつがある。「沢登り」という登山ジャンルを打ち立て「黒部の父」と言われた冠松次郎(1883−1970)も、「大杉峡谷は、まさしく関西の黒部峡谷だ」と絶賛していた。まさしく秘境中の秘境。峡谷を抜けると川は伊勢平野を降り、伊勢湾に注ぎ込む。その長さ約90km。急な雨に注意しつつ、この宮川沿いでいつもキャンプを楽しんでいる。
7月に行ったときはハヤやアユの大群に出くわしたり、ヤマカガシがカジカガエルを丸呑みしている現場に出くわしたりした。もう少し早い時期には、群生するホタルが舞う幻想的な風景も見られる。
いつも遊んでいるフィールドのまわりに、どんな自然環境が広がっているのか、ちょっと脇道に逸れて見てみるのも面白い。
◆産業
ー天然水、海産物がおいしい!
気候が自然環境を形成し、自然環境はその地域特有の産業や食文化を育む。宮川沿いには、昭和40年代まで「川漁師」という職業が存在し、「ひと夏の漁で得た収入で1年遊んで暮らした」と言われる。鮎は大人が片手で腹をつかんでも指がまわらないほどの、サバのような大きさだったそうだ。豊富な雨量は林業に恩恵をもたらしたが、木材価格は、昭和50年台をピークに下落。現在は住宅などに向けた木材加工業や天然水製造が大きな産業となっている。さらに下流域に目を向けてみよう。そこには伊勢海老や牡蠣などの海産物が豊富な伊勢湾が広がる。牡蠣の養殖業の方に話を伺ったとき、印象的だった一言は、「ここの牡蠣は1年モノが旨いんやで」。他の名産地、たとえば広島や宮城産の牡蠣は2〜3年で出荷されるが、浦村産は1年で十分な大きさに育ち、味・香りとも爽やかで、牡蠣独特の臭みがなく「牡蠣嫌いを好きにする」と言う。それは何より、この宮川の豊富な水量によって植物性プランクトンが大量に運ばれ、牡蠣をぷっくりと太らせているからだ。産業や食文化は、その地域の気候や自然環境にものすごく影響される。そんなことに思いを馳せながら、子どもたちと牡蠣(=美味しいその土地のもの!)を食べるというのも、またいい。
◆伝承
ー水にまつわる暮らしの知恵
ぼくは川遊びをする際には、必ず地元の人にどこで泳げばいいか聞くようにしている。これは許可をもらうというよりも、その川の安全基準を知りたいからだ。そのためにはその地域特有の言い伝えや伝聞が一番だと思っている。ちなみに日本の急峻な河川は、ひと雨降る毎にその川底の形を変え、流れを変える。1年も経てばなおさらだ。どこの河川にも「あの淵は足引っ張られるよ」とか「あの瀬は気ぃつけなあかん」といった言い伝えがある。全国各地の河童伝説に「河童はキュウリが好きだからキュウリを食べて川に入ると足を引っ張られる」というものが多いが、これは「ウリ科の作物を食べて身体を冷やすと一気に冷えてしまって身動きが取れなくなるから気をつけろよ」という戒めにちがいない。
宮川の伝承や昔話ではどうだろう。河童伝説など可愛らしいもので、「あの滝壺には牛鬼が出て、子どもを頭から飲み込む」とか「あの淵には大蛇が棲んでいて夜な夜な家畜を食べ散らかす。近づいた人間も同じ目に遭う」などといったおぞましい伝説が、イラスト入りで紹介されているのを見たときは、「おいおい、あそこで泳いだらアカンかったやん・・・」と身震いしたものだ。子どもや川漁師といった人たちへの、分かりやすい戒めなのだろう。
またこの宮川では、寒の時季の水、「寒の水」を重宝する。寒の水で仕込んだお味噌やアラレ、栃餅などの食品は腐りにくい、寒の水は体にいい・・・これは、乾燥するこの季節に無理に加湿を行うという考えでなく「乾燥した季節だからこそできること」を重視している姿勢なのだと思う。
こうした、季節と、自然と共に生きてきた田舎の人たちの言い伝えに、いつも感心する。ここまで深い情報でなくとも、地域の人と交流を持つことで「なんか今日はよう水が出とるぞ(ちょっと増水しているようだぞ)」といった情報を聞いておいて損はない。
◆歴史
ー伊勢神宮を中心に
遊びにいった土地に刻まれている歴史にも目を向けてみると面白い。宮川を有する大台町や隣の大紀町は「奥伊勢」とも呼ばれ、伊勢神宮にとても縁の深い地区だ。時は垂仁天皇25年、朝廷の命を受け、倭姫命という垂仁天皇の皇女が、天照大御神をご鎮座させる敷地を探していた。紀元前5年、イエス・キリストが生まれ、後漢の初代皇帝光武帝が生まれた年というからすごい。
宮川を河口付近から遡り、ちょうど大台町と大紀町の町境の地まで来ると、滝原という地域があるが、ここのあまりの美しさに草を刈り、その地に天照大御神をお祀りしたのだが、ご宣託があり、今の伊勢の地域に最終的にご鎮座することになった。
この瀧原宮の近くは、ちょうど大台町役場前なのだが、そこに面白い由来の地名がある。「船木」という地名だ。「船木大橋」という橋がある。ここは、前述の御敷地探しの折、倭姫命の乗られていた船が大破し、この地で修理したことから「船木」の地名が付いたという。また、この宮川はその昔「豊受宮祓川」という名前だった。この「豊受宮祓川」から「宮川」という略称になったという。
豊受宮は通称「外宮」と呼ばれ、食物や穀物の神様、豊受大御神をお祀りしている。神宮参拝は、外宮から内宮へとお参りの順序が決まっているが、その外宮へのお参り前に身を清めお祓いする川が宮川だった。江戸期「伊勢講(伊勢代参)」とともにお伊勢参りがブームとなった時の、たくさんの人が宮川を渡る画を見たことがある方も多いのではないかと思う。江戸方面から来るとどうしても、宮川を渡らないと伊勢の神域に入れない。よどみなく流れる宮川の流れの前に立つと、「さあここから気合入れてお参りするぞ」という心持ちになったことだろう。宮川の下流、伊勢地方において宮川本流に橋が掛けられたのは、明治期に入ってから。人びとは大昔から、身を清めるために宮川の水を浴び、神宮境内に参拝した。人だけでなく供物でさえも、宮川の河川敷でお祓いをしたというのだから、徹底している。現代においても年3回、天皇陛下から下賜される供物は、全て宮川河川敷で お祓いを済ませ境内に入るらしい(今は建物が建ったそうだが)。
梅雨の時、台風が紀伊半島を直撃した時、秋雨前線が停滞した時・・・人びとは宮川の氾濫を何度も目の当たりにした。伊勢平野(現在の伊勢市)は、そういった歴史の繰り返しだ。この「暴れ川」は氾濫するたび、伊勢平野を肥沃な農地へ変えていった。しかし伊勢の人びとにとっては、困難な治水の歴史でもある。南北朝の荘園制度華やかなころ、伊勢神宮の隣接地には京都の醍醐寺所有の荘園があった。この荘園地からは、度々堤防を作って欲しい旨の書簡が京都に送られていたようだ。時の為政者、平清盛や豊臣秀吉らが大掛かりな堤防を作るなど、治水についての苦労が偲ばれる。
◆文学
ー古来から和歌にも登場
ーほかでは見られないさまざまな生き物
気候は地形の形成に繋がり、地形は「どんな樹木、植物が多いのか」や「どんな動物や昆虫が多いのか」に繋がる。ちなみにこの宮川は、その雨量の多さから、紀伊半島をナイフでえぐり取ったようなV字峡谷を形成している。最上流部には「大杉峡谷」という日本三大峡谷のひとつがある。「沢登り」という登山ジャンルを打ち立て「黒部の父」と言われた冠松次郎(1883−1970)も、「大杉峡谷は、まさしく関西の黒部峡谷だ」と絶賛していた。まさしく秘境中の秘境。峡谷を抜けると川は伊勢平野を降り、伊勢湾に注ぎ込む。その長さ約90km。急な雨に注意しつつ、この宮川沿いでいつもキャンプを楽しんでいる。
7月に行ったときはハヤやアユの大群に出くわしたり、ヤマカガシがカジカガエルを丸呑みしている現場に出くわしたりした。もう少し早い時期には、群生するホタルが舞う幻想的な風景も見られる。
いつも遊んでいるフィールドのまわりに、どんな自然環境が広がっているのか、ちょっと脇道に逸れて見てみるのも面白い。
◆産業
ー天然水、海産物がおいしい!
気候が自然環境を形成し、自然環境はその地域特有の産業や食文化を育む。宮川沿いには、昭和40年代まで「川漁師」という職業が存在し、「ひと夏の漁で得た収入で1年遊んで暮らした」と言われる。鮎は大人が片手で腹をつかんでも指がまわらないほどの、サバのような大きさだったそうだ。豊富な雨量は林業に恩恵をもたらしたが、木材価格は、昭和50年台をピークに下落。現在は住宅などに向けた木材加工業や天然水製造が大きな産業となっている。さらに下流域に目を向けてみよう。そこには伊勢海老や牡蠣などの海産物が豊富な伊勢湾が広がる。牡蠣の養殖業の方に話を伺ったとき、印象的だった一言は、「ここの牡蠣は1年モノが旨いんやで」。他の名産地、たとえば広島や宮城産の牡蠣は2〜3年で出荷されるが、浦村産は1年で十分な大きさに育ち、味・香りとも爽やかで、牡蠣独特の臭みがなく「牡蠣嫌いを好きにする」と言う。それは何より、この宮川の豊富な水量によって植物性プランクトンが大量に運ばれ、牡蠣をぷっくりと太らせているからだ。産業や食文化は、その地域の気候や自然環境にものすごく影響される。そんなことに思いを馳せながら、子どもたちと牡蠣(=美味しいその土地のもの!)を食べるというのも、またいい。
◆伝承
ー水にまつわる暮らしの知恵
ぼくは川遊びをする際には、必ず地元の人にどこで泳げばいいか聞くようにしている。これは許可をもらうというよりも、その川の安全基準を知りたいからだ。そのためにはその地域特有の言い伝えや伝聞が一番だと思っている。ちなみに日本の急峻な河川は、ひと雨降る毎にその川底の形を変え、流れを変える。1年も経てばなおさらだ。どこの河川にも「あの淵は足引っ張られるよ」とか「あの瀬は気ぃつけなあかん」といった言い伝えがある。全国各地の河童伝説に「河童はキュウリが好きだからキュウリを食べて川に入ると足を引っ張られる」というものが多いが、これは「ウリ科の作物を食べて身体を冷やすと一気に冷えてしまって身動きが取れなくなるから気をつけろよ」という戒めにちがいない。
宮川の伝承や昔話ではどうだろう。河童伝説など可愛らしいもので、「あの滝壺には牛鬼が出て、子どもを頭から飲み込む」とか「あの淵には大蛇が棲んでいて夜な夜な家畜を食べ散らかす。近づいた人間も同じ目に遭う」などといったおぞましい伝説が、イラスト入りで紹介されているのを見たときは、「おいおい、あそこで泳いだらアカンかったやん・・・」と身震いしたものだ。子どもや川漁師といった人たちへの、分かりやすい戒めなのだろう。
またこの宮川では、寒の時季の水、「寒の水」を重宝する。寒の水で仕込んだお味噌やアラレ、栃餅などの食品は腐りにくい、寒の水は体にいい・・・これは、乾燥するこの季節に無理に加湿を行うという考えでなく「乾燥した季節だからこそできること」を重視している姿勢なのだと思う。
こうした、季節と、自然と共に生きてきた田舎の人たちの言い伝えに、いつも感心する。ここまで深い情報でなくとも、地域の人と交流を持つことで「なんか今日はよう水が出とるぞ(ちょっと増水しているようだぞ)」といった情報を聞いておいて損はない。
◆歴史
ー伊勢神宮を中心に
遊びにいった土地に刻まれている歴史にも目を向けてみると面白い。宮川を有する大台町や隣の大紀町は「奥伊勢」とも呼ばれ、伊勢神宮にとても縁の深い地区だ。時は垂仁天皇25年、朝廷の命を受け、倭姫命という垂仁天皇の皇女が、天照大御神をご鎮座させる敷地を探していた。紀元前5年、イエス・キリストが生まれ、後漢の初代皇帝光武帝が生まれた年というからすごい。
宮川を河口付近から遡り、ちょうど大台町と大紀町の町境の地まで来ると、滝原という地域があるが、ここのあまりの美しさに草を刈り、その地に天照大御神をお祀りしたのだが、ご宣託があり、今の伊勢の地域に最終的にご鎮座することになった。
この瀧原宮の近くは、ちょうど大台町役場前なのだが、そこに面白い由来の地名がある。「船木」という地名だ。「船木大橋」という橋がある。ここは、前述の御敷地探しの折、倭姫命の乗られていた船が大破し、この地で修理したことから「船木」の地名が付いたという。また、この宮川はその昔「豊受宮祓川」という名前だった。この「豊受宮祓川」から「宮川」という略称になったという。
豊受宮は通称「外宮」と呼ばれ、食物や穀物の神様、豊受大御神をお祀りしている。神宮参拝は、外宮から内宮へとお参りの順序が決まっているが、その外宮へのお参り前に身を清めお祓いする川が宮川だった。江戸期「伊勢講(伊勢代参)」とともにお伊勢参りがブームとなった時の、たくさんの人が宮川を渡る画を見たことがある方も多いのではないかと思う。江戸方面から来るとどうしても、宮川を渡らないと伊勢の神域に入れない。よどみなく流れる宮川の流れの前に立つと、「さあここから気合入れてお参りするぞ」という心持ちになったことだろう。宮川の下流、伊勢地方において宮川本流に橋が掛けられたのは、明治期に入ってから。人びとは大昔から、身を清めるために宮川の水を浴び、神宮境内に参拝した。人だけでなく供物でさえも、宮川の河川敷でお祓いをしたというのだから、徹底している。現代においても年3回、天皇陛下から下賜される供物は、全て宮川河川敷で お祓いを済ませ境内に入るらしい(今は建物が建ったそうだが)。
梅雨の時、台風が紀伊半島を直撃した時、秋雨前線が停滞した時・・・人びとは宮川の氾濫を何度も目の当たりにした。伊勢平野(現在の伊勢市)は、そういった歴史の繰り返しだ。この「暴れ川」は氾濫するたび、伊勢平野を肥沃な農地へ変えていった。しかし伊勢の人びとにとっては、困難な治水の歴史でもある。南北朝の荘園制度華やかなころ、伊勢神宮の隣接地には京都の醍醐寺所有の荘園があった。この荘園地からは、度々堤防を作って欲しい旨の書簡が京都に送られていたようだ。時の為政者、平清盛や豊臣秀吉らが大掛かりな堤防を作るなど、治水についての苦労が偲ばれる。
◆文学
ー古来から和歌にも登場
この地域は、和歌にも数多く詠まれている。後鳥羽院は「朝夕に 仰ぐ心を 猶照らせ 波も静かに 宮河の月」とうたい、藤原定家も「契ありて けふ宮川の ゆふかつら 長き世までも かけて頼まむ」と詠み、新古今和歌集に撰ばれている。ぼくには歌の心得がないが、それでも後鳥羽上皇の歌は宮川のとうとうとながれるさまに心打たれるし、藤原定家の歌には鎌倉幕府勃興期、承久の乱などを経た不安定な京の人びとの願望や祈りといったものを感じる。こういったことも今は比較的ネットで検索できる時代だ。いつも遊びに行く土地が、歴史や文学にどのように登場しているのか、調べてみるのも一興だろう。
さて、随分マニアックな「宮川」地域の紹介になってしまった。
もちろんこの地域に行ってみていただけるのも嬉しいのだが、みなさんそれぞれが過去に遊びに行ったことがある地域に、季節を変えて遊びに行ってみてはいかがだろうか?
その際にはぜひ、その地域の特色を調べて行ってほしい。少しでもその地域特有の気候を調べ、美味しいもの、歴史・・・と調べていくと、意外な面白さを発見できるだろう。そしてぜひ、その地域の人たちとコミュニケーションを取ってほしい。商店で、道端で、積極的に会話してみよう。地域の人に教えてもらうことほど心強いことはない。
そして、キャンプで好きになった村、海水浴で好きになった海岸、川遊びで好きになったあの滝壺・・・そこから一歩すすんで、レジャーとは違った魅力を見つけてもらえれば、その地域の人たちにとってもこれほど嬉しいことはないだろう。
そもそも、こうしてひとつの土地に思いを馳せるのも、立派な「自然あそび」とも言える。お父さんが主導してぜひ、何度も通ってみてほしい。