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「子どものため」なんて思い始めた時から、私はするりと、子供の腕の中から抜けていた。 それはまったく、私自身の――何をしたいのかがわからなくなった私自身の――映し鏡でしかなかった。私は、停泊してしまったように見える子どもの中に私の迷いを見、自分の悩みの重さに目盛りを合わせて、つまり拡大鏡で、彼らの<揺れ>を見ていた。 だからデリケートで重大で、日々の一瞬一瞬に矢のように飛んでくる問いに――初めてBに来た子と常連の子をふたり目前にして何か接点を見つけてあげられるか、弁当箱を出しっぱなしで忘れている子にかたづけろと言うんじゃなくて指でもさして忘れていることを気づかせるだけで十分なのではないか、テレビゲームに没頭していてもどこかかけ算や読み書きから離れていく不安があるのだから、もっと学習に近づきやすくなるよう働きかけるべきなんじゃないか?―――――に答えをだせるだけの「私」がなかった。 Bをやめることにしてたこ焼き屋のバイトに入ったとき、たこ焼きが人間でないことに気持ちがひどくやすらいだ。たこ焼きに本気でかかわりまっすぐ鉄板に向かっているような職人さんなら、たこ焼きからだって宇宙が見えるんだろうが、短期のバイトとしかとらえていない私には、たこ焼きの出来や不出来で私という人間が問われることはなかった。 心は「生もの」で、つるつると表面がすべりやすく、決して自分の手に相手のそれを(自分のそれも)握ることはできない。球かと思えば円すいや八面体だったり、無神経に扱えば穴をあけ、そうやって一度収縮してしまうと元に戻らないことだってある。けれどだからこそ、本当に心を開いてくれたような気がする時――たとえそれがほんの数ミリでも――奥の激しい光が見えて、どきどきするのだ。 ドキュメンタリーに人間を映す時、その片りんが一瞬でも光っていないのなら、何も映っていないのと同じじゃないかと思う。だから私は、心という「生もの」に日々向き合う現場を仕事には選ばなかったけれど、やはりその角っ子に触れたいという欲求は、捨てられなかったのだろう。 恋人のため、子どものため、途上国のため、弱者のため、になるつもりで助けていると、ためになることをしている自分が一番かわいい。本当にその人の「ために」なりたいと思った時に、またはためになりたいと思っていないのに助けなければいけない人が目の前に現れてしまった時、どう「ために」の看板をかかげず、それでもやはりためになることができるのか。放り投げて知らんぷりをするのではなく、どうひと思いだけでもかかわれるのか。 それは「ために」ということと、「ために」といわないことのちょうど中間に、ぽっかりとした空洞があって、そこに身を浮かべられるようなことかもしれない。 「子ども」は私の中にいて、どんな大人の中にもいて、だから私の子どもとのつきあいは、今も、これからも、続いていくのだ。 《《《ブラから 2008年8月》》》
9月も間近というブラ、例年よりいくぶん涼しかったせいか夏が(ほとんど)終わった気もせず、私にとっての夏の風物詩のそうめんも冷や奴も食べられなかったのは毎年のこととして、西瓜さえもなんとなく冷たすぎるように思われて一度だけしか買わなかった今年です。 脇山美伸 脇山美伸さんの
ドキュメンタリーDVD
『羊飼いといっしょに』
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