鏡で自分の顔をじーっと見ていると、ふしぎなことが起こる。
シミだ、とか、シワがあるな、とか思いながら見ている
はじめのころは「わたし」だったのが、1分も過ぎたころには
「この人」になってくる。
見慣れた顔がへんなふうに見えてきて、だれか知らない人みたい。
「わたし」というときの顔は、
視覚と思考を使って見ているんだと思う。
その思考は無意識に自分の都合のいいように解釈し、
情報を目に送る。
見たくない部分は消去し、いいふうにとらえているとこ
(気にいっているとこ)は過大評価する、というふうに。
その逆もあると思う。
かなり整った顔なのにいい部分を消去し、過小評価する人。
そういうふうに視覚と思考の相互作用を巧みに利用して
自分の顔を勝手に作る。
いつも自分が認識している顔はそっちのほう。
でもさらに長い間じーっと見ていると、
ある時から急にへんに見えてくる。
ぼーっと見ているために思考が止まり、
単純に目だけを使って見はじめたからだ。
そうなると少しはずかくなる。
親兄弟を見てて、自分じゃないけど身内気分ではずかしい、
みたいな。
映像の中の自分を見ているみたいな。
でも顔は相変わらず、にらめっこのようにじーっと見つめていて
表情はなく、照れてるわけでもない。
今、鏡を見ている自分と、鏡の中の自分は
別次元の空間にいる感じがする。
見慣れている顔とはぜんぜん違う顔だ。
他人が見ている自分の顔はこっちのほう。
撮ってもらった写真が、第三者からみたらいい写真で、
よく写っているといわれても、
自分としてはすごくいやなときがある。
たぶん、こう見えたいという自分じゃないからだ。
でも残念ながら第三者から見れば本人そのもので、
第三者の視覚にはいつもしっかりそのように写っている。
自分のことを冷静に見たいとき、客観的になりたいときは
鏡をじーっと見ればいいかもしれない。
洋服を選ぶときもたまに思うことがある。
着ている服は自分に合うだろうと思って着ているけど、
じつはそこには、こう見えたい自分というのが含まれている。
たとえば、あの人はいつもクールできりっとした服を着てるけど、
やわらかくて優しい雰囲気の服のほうが
もっと似合いそうなのにということがある。
似合いそうというか、もっと水を得た魚くんのようになって、
その人が輝きそうなかんじがするのだ。
なりたい自分、こう見えたい自分と、自分に合うものが違う。
もちろん「見えたい自分」の中からでも、
合うものを選んでいるから、合うことは合う。
でも第三者から見たら、
もっとその人にはまり、生き生きさせるのに、
というのがあるかもしれない。
自分が選ぶものというのは、どうしても
思考と視覚が混ざった色目で見てしまう。
自分のことをだれか知らない人でも見るようになって、
いろんなもの、ことを選んでいったら、おもしろくなると思う。
幅が広がるかもしれない。
あるいは、焦点が定まってくるのかもしれない。
これから、鏡に映るへんな人をもっとよく見るようにしよう。
酔っぱらった時ふと鏡をのぞくと
映っている顔もかなりへんでよし。

 






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